TALK ABOUT…MUSIC #02

KOICHIRO

そしてバンドを組む事になる訳だが、最初は歌を歌おうなんて、1ミリも思わなかった。
仲間内では1番ギターが下手だって理由から歌になったw
ドラムは先輩のバンドで幼なじみのOKAZAKIしかいないって最初から思ってて、先輩のバンドだから最初は手伝って~的な流れからメンバーにしてしまえw
って狙ってましたw

その頃、先輩たちにBEATLESやSTONES、そしてBluesの楽しさを教えて貰った時期でもあった。

毎週、日曜にOKAZAKI宅に遊びに行っては録画したベストヒットUSAやTVで流れてきたMVなんか観ながら練習したり楽しかった時代でした。後にカヴァーする事になるマイケルの「BEAT IT」もその頃よく観てた。

時は変わって80年代も終わりを迎える頃、Peah以外の4人になっていた。この4人になってからよく練習し、よく音楽談義なんかもしてた時期だ。週末は皆で飲んで、その後、クラブにもよく遊びに行った。芝浦GOLD、青山MIXとか、音楽を耳で聞くのではなく体で体感できる場所としては当時の僕達にとって最高の空間だった。レゲエ、ワールドミュージック、ハウスそこでは心地よく響いているのである。その経験が自分たちの音楽に真剣に向き合うきっかけになったのだと思う。僕たちの夜明け少し前の話。


MIYO-KEN

小学生の時は御多分に漏れず野球少年だった。。
普通にピンクレディーに熱狂し、キャンディーズでは誰が好きとか(兄姉がいるとピンクレディーよりキャンディーズが好きって人多かったかも)、西城秀樹のアクションすげ~とか、たわいもない話ではしゃいでいる至って普通の子供だったと思う。

ある時までは。。

関東圏のみの放送だったのかな、夕方から、多分、毎日やってたのかな。
「銀座NOW」って番組があってさ、そこに登場した原田真二、チャー、ツイストに圧倒されちゃって。。当時ロック御三家って言われてた方々(何ともまあ仄々した呼び名だけど)です。
モンキーズに嵌ってたクラスメイトもいたけど(再放送だと思うがモンキーズの番組も夕方放送されていた)、僕は圧倒的にツイストだった!!

今ではツェッペリンのギターが云々とか畏まった事言うけど、僕の本当のエレキギターディストーション原体験はツイストですからw。まだこの時は自分でギターを弾くとか露程にも思わず、実際に手にするのはこの体験から半年程先だったと思う。

祖父、父の事は前途したが、そういった環境だったので僕の2人の妹は幼い頃からピアノを習っていた。僕も何度か一緒にレッスンを受けたことがあったのだが、将来の目標はジャイアンツ入団だったので(当時の男児の半分以上は同じ夢を掲げていたw)、たいした興味も持てず流してしまった。この事、今では滅茶苦茶後悔している。あの時きちんと習っていれば、続けていればと何度思った事だろう。今では譜面(簡単なやつねw)の読み書きもある程度はできるようになったけど、M-AGEの解散後に初めてアレンジの仕事をした時は譜面の書き方がわからなくて、とても恥ずかしい思いをした。。和音の理論とかも知らなかったし。。

勿論そんなもの無くても良い音楽は作れるんだけど、初めて会う人と音を出すに当たっての共通言語としては必要なモノだと思ってます。勿論M-AGEでは譜面使った事ないけどね!(使うわけないわ、共通言語は「だっぺ」だし。全てこれで事足りるw)

そんな父が、小6の2学期の終わり位だったかな、『ケン坊(今でもこう呼ばれてます)も何かひとつくらい楽器が出来た方が大人になってから楽しいぞ』と。僕も普通にそんなもんかなって感じでギターを始める事になったのだが、この出来事が僕ら親子の将来を大きく変えるターニングポイントになるとは全くもって想像出来なかった。

冬休みに入ってすぐに、日立の銀座通りの入り口にあった寿屋(質流品や中古を扱う店、後から知ったw)に向かった。僕はその店がどういった類いのそれかは知らなかったし、車からも降ろして貰えずに妹たちとどんなギターを買って来てくれるのかワクワクしながら待っていた。
父にしてみれば僕がギターを続けるかどうかもわからないのに、値段が高いの選ばれてもなんだし、色々と考えてお店に連れて行かなかったんじゃないかなww。

余談だが姪っ子にギターを買ってあげたことがあった。
もう結婚もして立派な大人だけど、彼女が中学の時かな、映画の「Nana」だっけ?中島美嘉のglamorous skyがヒットしてさ、電話かかって来て「いらないギターある?」って聞かれて。
話を聞くと、どうやら学祭でバンドを組んで演奏したいと。

俺的にはさ、家族、親戚の間で頼られるような事は仕事的にも生き方的にもほぼ皆無だったし、「よっしゃ、俺にまかせろ!!」な感じで気合入れて色々と見繕ったのよw。
赤いギターが欲しいって事なので、ジャズマスター、テレキャス、ジャガーなんかをピックアップして画像を送ってあげてさ。そしたら返信で予算云々って言うから、いやいやケンちゃんが(甥っ子、姪っ子にはこう呼ばれてる)買ってやるよ、心配すんな!!って事で叔父さん的な株を上げて、自分がギターを買って貰った時のことを思い出したりして、ほのぼのした気持ちになったり。

新宿の石橋楽器で赤いジャガーと小さなアンプを買って送ってあげた。勿論叔父さんがギターを調整して弾き易くしてね。
その後学祭が上手くいったかどうかの連絡はなかったなw。
ギターを続けた形跡もなかったw。

浦沢直樹の「20世紀少年」の映画が公開された時に、そのギターでT-REX弾いてあげたらスゲ~って絶賛された事もあったな。いやいやムードに拘らなければ誰でも弾けるしw。
そのムードを醸し出すのがめちゃ難しいんだけど。ここ一番大事なポイントね!
おいおい、ギター講座じゃねぇからw。

話戻すけど、そんな12歳の冬に一生を左右する運命的な出会いをしてしまった訳だ。

長くなったので無理矢理まとめる。。

次回に続く!!


OKAZAKI

ドラムを演る事になったけど近所のお兄さんからお古のフォークギターをもらった。
なのでギターも演っていた。っていうよりいじっていた(笑)当時のアイドル雑誌のフロクに付いていた歌本をみまくって流行りの歌を弾いてコードを覚えていった。
ドラムの練習といえばほとんどみていないそのアイドル雑誌が練習台になっていた。
足の練習は…そこまで出来ていなかったのが正直なところかなぁ^^;
ただThe Beatlesの自分が演奏する曲は聴きまくった♫
仲良い友達にカセットに録音してもらって聴いていた。
学園祭で初めて人前で演奏をした。
ご想像の通り、それはそれは楽しかったよ♪♪
そして高校生になってよせば良いのにまた吹奏楽部に入部した。今度は打楽器パートを希望したんだ。この学校の吹奏楽部は女性が多かった憶えがある。打楽器の先輩も女性だった。丁寧に教えてくださった♫
あ、その時のエピソードがある。
入部してすぐに「岡崎くんドラムやってるって言ってたよねー♫ ロール出来る?」って聞かれて、心の中で[ん?よくわかんないけど…今なんて言った?ロール?…。…。…。あ、ロックンロールのことか!!]と勝手に解釈して「はい!!出来ます!!」と堂々と答えたら、ロールとはスネアを連打する奏法だというのは後からわかった。
顔中が真っ赤になって大汗をかいたのは言うまでもない(笑)

それからは学校で練習が出来てスタジオに行かなくてもドラムが叩けることが嬉しかった。
が、時が経つにつれさまざまな誘惑に負けて部活動に行かなくなっていった。
ある時後輩の女子から「先輩!部活に来てください!!」って言われてすっごい嬉しかった♫^_^

野球部の大きな大会にはすすんで参加した♫
何故ならドラムを思いきり叩けるからだ。
ある大会では対戦校の吹奏楽応援のドラムが派手だった。
オレも負けじといつも以上に叩きまくった。
ウチの吹奏楽部の先生は指揮者だったが、岡崎もっと行け!!って感じでコンタクトが大きく振られていた。
って言う高校生の思い出。


DJ PEAH

そんなストレスからか、高校でおしゃれにはまりました。DCよりもパンクファッション、その時、革ジャンは高かったので、モッズコートにヴィヴィアンTを着ているのが当時私のユニホー ムでした。マーチンラバーソールを履き、常にVESPAに乗って走り回る。そんな日々です。

ファッションと同じタイミングで音楽も同時進行。アパレル関係のパーティには必ず顔をだし踊っていた。オールジャンル選曲するDJを見てからあこがれを抱くようになる。その選曲の中でRAPに興味を持ち始めHIPHOPを知ることになった。バンド演奏とDJプレイがごちゃ混ぜで一つになるプレイがHIPHOPのDJだったのだろう。あこがれの先輩とは須永辰緒先輩でした。