TALK ABOUT…MUSIC #05

KOICHIRO

YMOを好きになった理由は、サウンドのみならずファッションに興味を持つきっかけにもなったからだ。赤い人民服をきたレコードジャケット、ライブで着ていた紙のシャツなど、当時の僕には非常にお洒落に映った。幸宏さんがデザイナーを務めていた「Bricks Mono」の洋服を見に渋谷のパルコに行き(中学生が着られるような服はないのだがw)、写真集「OMIYAGE」で教授がきていた、「BALL」のトレーナー買いに行ったり、音楽=ファッションと切っても切れない関係になった。

ちょうどその頃、家の近所に雑貨屋さんができた。雑貨屋といっても日用雑貨の店ではなく、渋谷にあった「文化屋雑貨店」の商品や輸入雑貨を揃えた店だ。その店の社長Tさんは非常にアウトローで面白い方、店長は音楽好きのA兄さん、当然足繫く通うようになった。特に店長のA兄さんには、「これだけは聴いた方がいいロックベスト10」とか前述のThe Velvet Underground、THE DOORS、Roxy Music、T-REX、The Rolling Stones、SEX PISTOLS、CLASH、David Bowie、The Beatles、S-KEN辺りを半ば強制的に聴かされたwその頃は、洋楽を知る術って雑誌か人に聞くしか手がなかったから今にして思えば、ロックの基礎を教えて貰ったようなものだったな~。A兄さんには無名のストラトキャスターを貰ったりと何かとお世話になりました。
TVでは唯一の洋楽番組?小林克也の「ベストヒットUSA」この番組でみたBowieの「Ashes to Ashes」のMVは今でも鮮烈に覚えているし、T-REX特集なんかもやってたと思う。A兄さんに借りたDOORSのレコード「ハートに火をつけて」の歌詞の日本語訳をみた時、ジムモリソンの抒情的で哲学的な詞は当時の僕には理解できなかったけど、しっかりと影響を受けているのは確か。

そして貰ったギターで練習するのだけど、ひきにくくて一向に上手くならなかったw
PUNK好きの友達SSとバンドやろう!なんて盛り上がっていたのに、余りにも下手で、SSは別のヤツとバンド組んでた・・・泣
で別の友達とバンド組む事になるのだけど、その友達が凄い不良なS君www
不良なのにYMOが好きでパットベネターを聴いているという。自分の事をニューウェーブヤンキーと言ってたw
ニューウェーブヤンキーのS君とは、意気投合してロカビリーなんかも聴いた!エディ・コクランやStray Cats!そして文字通りニューウェーブのJAPANを聴いたり、ほんと良く遊んでました。毎月のように洋服を買いに都内に出かけたり、僕の音楽とファッションの歴史にはかかせない人です。ニューウェーブヤンキーw
JAPANといえば忘れちゃいけないのが一風堂の土屋昌巳さん!一風堂も好きだったけど、JAPANでひいていた姿は非常にカッコ良かった!
関係ないけど一風堂といえば渋谷にあったディスカウントショップ!バンド名の由来はあの店からだったとは知らなかった!M-AGE時代よく、かっちゃんと買い物に行きましたw

肝心なアーティストを忘れていました!佐野元春さんは中学時代ほんとに良く聴いた!3つ上のいとこSEさんが聴いていたのが最初の出会いだったかな!?A兄さんにもナイアガラトライアングルVol.2っていう大滝詠一、佐野元春、杉 真理、3人のトライアングル企画盤を聴かされた気がするw

バンドは一緒にできなかったけど仲がよかったSSとは、一緒に「爆裂都市 BURST CITY」っていう映画を観に行った。「スピード・ロック・暴動」の映画で、中学生には過激に写ったものでしたwミュージシャンも多数出演していてロッカーズの陣内さん、ルースターズの大江さん、池畑さん、INUの町田町蔵さん、そしてスターリン!なんとも豪華なキャスティングでサントラ版も買ってしまった!!当時スターリンは色々な意味で話題になっていたものの観る術がなかったので、映画で観られたのは良かったです!豚の臓物投げるとことかw
そして面白かったのが、田舎の映画館では良くあった事ですが、同時上映があった!そこまでは普通なんだけど、「水のないプール」っていう内田裕也さんが主演で仙台クロロホルム連続暴行魔事件に着想を得た内容、成人映画扱いだったので、映画館入る時、止められないかドキドキもの。内容もある意味過激でしたw

ちょうどこの頃、自主制作なんて言葉を聞くようになった、スターリンの自主制作盤が即完売、なかなか聴く事もできなかったっていう時代です。インディーズって言葉を聞くのはもう少し後の事。
つづく。


MIYO-KEN

今は音楽雑誌って相当減ったけど、当時の僕にとって情報を拾うには音楽雑誌が全てだったと思う。

TVは今も昔も変わらないし(今の方が酷いけどw。毎週日曜に放送されていた大石吾郎の「コッキーポップ」は楽しみだった)、ラジオはいろんな番組あったけど、茨城の山の中まで電波が届くのは、唯一水戸放送曲からのNHK FMくらいだった。
勿論エアチェック(放送をカセットテープに録音する事)なんて1ミリも考えられなかったな、水戸放送局の番組でさえジージーいってたからねw。

音楽雑誌の種類も洋楽、邦楽、月刊、季刊、教本問わず沢山あったと思う。
雑誌の傾向で付録も違って面白かったけど、カセットレーベルが多かったのかな?
カセットテープ全盛だしね。FM番組系の雑誌の付録はこれが多かったようなw
因みにカセットテープはソニーのBHF派だった(緑のやつね。)
教本系は必ずソノシートね!(ソノシートは前述したかな?)

ツアーの情報なんかも事細かに記載されていて、ここで情報拾ってライブ行ったり。
ほぼ水戸で、たま~に日立w。
そりゃそうだ、僕の出身の高萩市に市民会館がやっと出来たかどうかの時代感だし、まして出来たばっかりの会館でライブとか考えられなかっただろうしね。あ、当時ね、今じゃないよw。

水戸までは電車で約1時間。県庁所在地で水戸黄門でも全国的に知名度高しの水戸。決して茨城じゃなくて水戸ねw。そういう意味じゃ日立も同じか。
親戚のお姉さんに県民文化センターまで連れてってもらって大興奮で見たツイスト、演奏中に世良さんが高くギターを放り投げてそれを見事にキャッチしてさらに弾き始めるという、アクロバッティーなシーンは今でも脳裏に焼き付いてます!ギターはギブソンだったのだろうか??前回書いたけど今や田園調布、渋谷の松濤ですからね!!

長渕剛もバンド付ける前のライブ(現在のような和製ブルーススプリングスティーンではなく、所謂フォークシンガー然としたスタイルで弾き語りで全国をまわっていた)を見たり。

当時の地方都市のプレイガイドってどうなってたんだろう?
すでにチケットぴあはあったはずだけど、地元のレコード店や本屋で、ホールの座席表を見せられて空いてる席を買った記憶があるんだけど、もちろん予約なんて無しで。
おそらく、各店舗で座席の持ち回りがあったんだろうな。

小遣いで賄いきれない音楽雑誌は、地元の田所書店に入り浸っては眺めていたと思う。
今も本屋は大好きでよく眺めに行くけど、専門系(ギターマガジンなどのプレイヤー目線のもの)は除いてほんとに音楽系の本は減ったよね。それと最近感じるのは雑誌自体のサイズがどんどん小さくなってる事。いやいや文字が見えませんから、、って感じる方も少なくないでしょう??

そんな中、ここ何ヶ月か悩んでいた問題(前回のスライドバーの件)が解決された。

それは地元にあった「みのわ楽器」にギター弦を買いに行った時の事だった。

そこのショーケースには、中坊には絶対手の届かないエレキギターや、ピッカピカの管楽器が陳列され、何時間でもいられる様に感じたものだ。(もちろん今でも楽器屋さんは何も買う予定がなくても楽しい場所だし、見ると欲しくなるのでなるべく素通りするようにしている)

もちろん楽器だけじゃなくて、レコードや様々なアーティストの弾き語りコード本なども置いってあった。

そこで見つけてしまったのだ、ツイストのギターコード本!!
その中の1曲に前述した『SOPPO』が!!!
もうすぐにでも買いたかったが、お金が、、、

もちろん耳コピでコード進行は把握している。ほぼ正解だ!
コピーを間違えてなかった自分に感心しながらも、譜面を注意深く見てみると、そこに記されていたのは注釈付きの『G』コード。。

え~っ、どっこも押さえないで『G』???

ここで軽く解説を。ギターはアコースティックでもエレキでも基本的に太い弦から順に、「ミ、ラ、レ、ソ、シ、ミ」でチューニングするんだけど、この注釈にはこうあった。
「レ、ソ、レ、ソ、シ、レ」。。えっ??

なんと~~、チューニングで既に『G』コードになっていたのだ!!!!

もう頭の中はお花畑だ。弦高が高いフォークギターでなかなか出来なかったFのコードフォームが指1本で可能なのだ!(ちょい早口で興奮気味な画を想像して頂ければw)
指1本で3フレットを押さえると、フォークギターでは鬼門(あくまでも当人比だが)のB♭になるのだった!!
指1本で曲が弾けるなんて「、、プロってずるい」とは思わなかったけどさw。

もう目から鱗状態。
今となっては何て事のないオープンGチューニングなのだが、いがぐり頭の中坊にとっては、とてつもない発見だった。まさしく冥王星発見的なねw。

続く。。


OKAZAKI

YMOも大好きです^ ^

中学生になりThe Beatlesのコピーバンドの話はしましたが、その反面YMOも大好きでした♫
近所の同級生も、音楽が好きで良くツルんでいた。
その彼の家に行くと、必ず最新の音楽や自身がハマってる音楽を教えてくれた。
その中でもオレの心が踊ったのは、イエローマジックオーケストラ♫
中でもパブリックプレッシャーっていうLive albumがお気に入りだった。
針を落とすと、ボコーダーで始まる「We are Yellow Magic Orchestra 」もうこれだけでテクノ!!ってなる。
興奮する♫
最新のテクノロジーを使って奏でる音楽!カッコいい。
M-ageにも反映されていると思います♫

高校生では、ベストヒットUSAやMTVなどを見て最新の情報を得ていた。

完全に海外へ目がいっていたオレは、この後 幼なじみのKoichiroと再会して日本のインディーのアーティストを知り、度肝を抜かれるわけです。ハイ💦
ARB、ルースターズ、ボウイと色々教えてもらった♫
カッコ良かった^ ^
自分はドラムなので、ドラム目線で聴いたらやはり、ルースターズやボウイに耳がいった。
池畑さんのビート感や、高橋マコトさんのビート感がやみつきになった。どうしたらあんな高速なエイトビートが叩けるんだろう?🤔
毎日考えてたなぁ~
考えてるのが本当楽しかった😆


DJ PEAH

16歳の時その道に入ったわけですが、同級生の友達はロカビリー、パンクのファッションでしたね。唯一同じファッションで同じ道を歩んだ友人がいました。
当時ヒップホップユニットを組んでいたパートナーのMC PYU(ピュー)というラッパーです。何をするにもいつも一緒に行動してましたね。

学生時代から上京までの経験は忘れられません。『ラップに思いを込めて』NHKのドキュメントにも取り上げられたこともあります。その相方ピューですが、しゃべくりに訛りがありました。なんというか雰囲気がピコリンに似ています(本人にも話をしたことあります)
私がバンド(M-AGE)に加入後はずっと会えませんでしたが、M-AGE解散後、DJとして参加したCOLD CUT来日ライブの時にばったり再会。少しだけ話ました。
ずっとアメリカに放浪していたらしく以前と変わった雰囲気だったと記憶しています。本当にありがとう。

ヒップホップを貫き活躍している当時の仲間も多くおります。初心忘るべからず、純粋さを忘れないでほしい。

探求心は大事ですね。