TALK ABOUT

TALK ABOUT…MUSIC #06

KOICHIRO

今回は当時観たアーティストについて、中学時代、初めて行ったコンサートは松任谷由美。場所は某県民文化センター、ちょうどアルバム「昨晩お会いしましょう」が発売された後で、ツアーも異常なまでに大掛かりであった。「今日は1億円の龍を連れてきました」ってMCのあと巨大な龍の乗り物に乗って歌っていた。とにかくセットや衣装チェンジなんかも多く、中学生からみても、お金かかってるな的なコンサートでした。意外だったのは結構冷静に観る事ができたこと、まあロックじゃないしねw
ユーミンを聴いたのは、1こ年下のいとこが好きで聴いてた事が始まり。ユーミンの中でもマイナーなミニアルバム「水の中のアジアへ」ってアルバムが好きだった!ユーミンは当時、TVにはほとんど出ないアーティスト、なのに皆知ってる稀有な存在だ!映画「ねらわれた学園」の挿入歌にもなっていた「守ってあげたい」は良く聴いてた。荒井由美時代の曲って、ほんと名曲が多いのだけど、個人的には「水の中のアジアへ」推しですw

さて次はいよいよ初のロックバンド、RC SUCCESSION!前出で登場したSS君と一緒に場所は同じく某県民文化センター。もう行く前から何着てく?だとか化粧する?なんて大盛り上がり!当日も年上が多い会場をよそに舞い上がってたw
始まるまでのドキドキ感、始まってからのワクワク感、清志郎さんのド派手な衣装に化粧、そしてパフォーマンス!言葉では語り尽くせない良き思い出です。時期的にはシングル「SUMMER TOUR」の発売前後。終始圧倒されまくりのコンサートは凄まじく、圧巻でした!!!
こちらの某県民文化センター、実は1980年にJAPANも来日公演をした場所でもあった。凄い観たかったけど、隠れJAPANの身としては、同級生バレるのが怖かったため断念したが、行っておくべきだったと後悔している。

次は、またもSS君と福島県いわき市までARBを観に!いわき市さほど遠くないとはいえ初の県外遠征、もう楽しくない筈がないw
当時のARBはアルバム「W」を発売したばかり、まだあまり知名度のなかった頃でしたが、それがかえって良かったのか、同じ世代の男ばかりだった会場の一体感は今でも忘れられないし異様に盛り上がったのは言うまでもない。ARBはストレートなR&Rだけど当時の僕には刺さるサウンドだった!この後、この会場で3年連続でARBを観ることとなるのだが観るたびギタリストが変わってたな~それも良き思い出。

さて今回は短めですが、中学時代はおおよそこんな感じで過ごしてました。自分でも忘れている事が多く、時系列は多分めちゃめちゃだと思うけど、楽しい過去の旅が出来ました。また機会があればその後(高校時代)にも触れてみたいと思う。
ってまだつづく・・・のか!?


MIYO-KEN

中3になり、毎日が憂鬱だった部活(野球)も見事に地区大会敗戦でやっと終わりを告げ、6月以降は家に早く帰れるのがとても嬉しかった。スクールバスだけどw。
たった2~3時間の話なのだが、高校受験を控えた中3にとってはその時間を音楽に当てられるのは、なによりも大切な事だった。

そんな事ならとっとと部活辞めれば良かったのにと思われるかもしれないが、当時の田舎の空気感はとてもとても途中で辞められるモノではなかった。そんな事をしようものなら、根性無しのレッテルを貼られるだけだった。(日立の中学なんかの生徒数が多い所は違ったのかな?僕のところは各学年3クラスで、全員顔見知りw)

倅が中2で水泳部の副部長らしいのだが、この夏休み、雨でも部活に通っていたw。
ま、大雨でもプールに入れば一緒だろと思うのだが、体感温度が違って寒いらしい。
そんな日は練習に来ない部員もいるらしいが、そこは個人の自由で顧問の先生も問い詰めたりしないし、練習に行ってる生徒も「あいつ休みか」位にしか思わないんだって。
時代は変わったな。あたりまえか、俺が中3って40年も前の話だw。

自分の話に戻るけど、中3も夏休みに入ると嫌でも受験が現実味を帯びてきた。親の目も厳しくなり好きなだけ音楽に時間を費やす事は出来なくなっていた。
そりゃそうだw。あくまでも趣味であって、その道に進むなんて両親はこれっぽっちも思わなかっただろうし、担任の先生も三者面談で苦言を呈していた。よくあるパターンで、取ってる点数は変わらないのに偏差値が下がるってやつ。
この時にもっとギターに打ち込んでいれば、速弾きが出来るようになっていたかもしれないし、そうなれば音楽の趣向も全くもって今とは違ったものになった筈だ。結果よかったのだw。

そんな中、私立高校の受験も1ヶ月後に控えた年末のある日、予想にもしてないニュースが飛び込んできた。

『ツイスト解散』

人気に翳りが出ていたのは知っていたけど、新しく出たレコードは買っていたしそんな事になるなんて夢にも思わなかった。。なかなかの衝撃だった。。
後に真相を知ったのだが、当時はその意味がよく理解できなかったけど、今ならよ~くわかる。

ツイスト解散の衝撃から間髪入れず第二の事件が襲った。。

なんと、高校受験が終わるまでギター取り上げ、、、

親にしてみれば苦肉の策だったのだろう、県立の第1志望が危いとの連絡を担任から受けていたのだったから。
冬休みに入って直ぐだったか、正月明けてからだったかは定かではないが、向こう3ヶ月はと思うと本当に長すぎた冬だった。。

自分の置かれている立場は理解していたが、臭い物に蓋状態に追いやり、会えない時間が愛育てるのさw(郷ひろみ)的な遠距離恋愛!な感じで、ポスターやカレンダーを丸めてはマジックで線を引いてギターのフレットに見立て、妄想練習に励んだw。

クラスの男連中はアイドル(柏原芳恵、河合奈保子など。この対局の代表格は松本伊代。数年後に松友伊代を名乗るA○女優が現るw)や横浜銀蝿の切り抜きを下敷きに入れてたなかで、僕は楽器屋から貰ってきたギターカタログからの切り抜きだった。ほんとに好きだったんだろうなw。

その甲斐あってか無事に第二志望に合格し笑、取り上げられたギターも返してもらい来るべき高校生活に思いを馳せたのだった。
そこでの出会いが、その後の人生に重大な影響を与える事になろうとは、この時は知る由もなかった。

追伸

手紙じゃないんだけどw、

延期を重ねたREUNIONライブまで1ヶ月を切り、皆さんも楽しみにしてくれている事と思います。メンバー共々9/22は特別な日だし、来週から4人でのリハーサルも再開します。
勿論、世の中の状況は日を追う毎に変わっていくし、色々と矛盾する事も承知の上だけど、今日、明日にできる事をやるしかないと思っています。
正直なところ1週間後の事でさえ??な気持ちもあります。
僕らとしてはこれをやらない事には、何も始めてないに等しいし、始められない。
音源とライブの順序が逆になってしまったけど、REUNIONを決めた時からライブこそが本当のリスタートだと思っている事にブレはない、です。


OKAZAKI

上京して初めて買ったCDは💿
ポリスのシンクロニシティです^ ^

いよいよ東京に来たわけですが、右も左も分からない田舎もんが、週末渋谷や新宿のCDショップへ行きまくり、片っ端から気になるモノを買い漁った^^;
中でもジャケ買いで気に入ったのは、レニークラヴィッツのmama saidだった♫

ハマって調べていくと、全部自分ひとりで演奏してるって言うじゃない!🎤 🎸 🥁 🎸
それでますます好きになった。
それとこのアルバムには、オレの好きなロックテイストが沢山詰まってた♫

この頃はM-AGEも、都内でLiveを重ねていた。

みんなU2のヨシュア・トゥリーを聞いていた♫
オレはと言えば、ハウスミュージックにハマりかけていた頃かな^ ^

その頃Kajiwaraから、ニューオーダーのTechniqueというアルバムを教えてもらった^_^
そう!メンバーはこうやって常にアレが良い、コレが良いと情報交換や楽しい事を共有していたのだった^ ^
Koichiroからは、デペッシュモードのViolatorを教えてもらい、
MIYO-KENには…何教えてもらったっけ?Bauhausとか…あ、マニックストリートプリチャーズを教えてもらった♫
まだペーちゃんと出逢う前の話。

ペーちゃんと出逢って最初に教えてもらったのは、マッシヴアタックの1st album♫
バッツグンにカッコ良かった!
ペーちゃん宅で、アナログ盤で聞かせてもらい、おったまげたのを憶えている。

まだまだ話は続きますが
ひとまずこの辺でバイなら🖐 😊


DJ PEAH

当時バンド時代の髪型についてですが、バンド以前からドレッドでしたよ。17歳の頃からドレッドです。実家が美容室ということもあり、ちょいちょい髪型は変化させていました。最初は強めのボブから入りましてドレッド風をキープ、そこからアフロみたいになり、どうしょうもできなくなり、三つ編みにして先端をゴムで結びました。いわゆるコーンロウってやつですね。

ここまでは友人や親族にやってもらったりしていたことなのですが、その後ロンドンレコーディング時に、撮影も含め髪型をグレードアップさせることになり、本場の女性を雇いまして、丸一日かけて、初めてエクステなるものを装着しました。
髪の長さは腰辺りまでありましたよ。完成した髪型は正にJazzie B(Soul II Soul)でした。根元からしっかり編んでいるので髪の毛が引っ張られて痛みが3日間続きました。痛みが取れた頃には、なにかの儀式を終えたような達成感がありましたね。スタジオ内でも好評で皆さん誉めてくれました。ですので、調子にのった私は町に徘徊することにしました。

ブティックに入ると店員さんに早速声を掛けられドキドキした思い出や道を歩いていると女性からカッコいい(髪型の方だと思う)と言われたり、通りすがりの人はかなりの確率で私の髪型を見ています。あの髪型は当時のロンドンでも最先端だったに違いない。。。

最高の一時もつかの間、維持をすることがとても大変ですね。髪を洗うとき、乾かすとき、整髪剤、また濡れると頭重い。

2ヶ月後
生え際も伸びてきます。根元から髪を洗っていますと地毛が切れてしまってヒヨコの産毛みたいになってしまいます。さすがにそろそろ外す時期となり雑誌撮影がきりのいいときに外しました。これまた快感。しかしチリチリが半端ない。
しばらくチリチリでドンキング(ボクシング)状態。どうしようもできない(セットしようがない)髪型ということがわかり、ストレートにした。
そのほうがフレキシブルにセットできることを知る。そして7年もの間ドレッドヘヤーをしていたことになるが、実はバンド解散後にもう一度髪型を戻し2年くらいドレッドだったなー。
今さすがにできませんが、そのかわりにドレッド風帽子で現在復活中です。よろしく!

TALK ABOUT…MUSIC #05

KOICHIRO

YMOを好きになった理由は、サウンドのみならずファッションに興味を持つきっかけにもなったからだ。赤い人民服をきたレコードジャケット、ライブで着ていた紙のシャツなど、当時の僕には非常にお洒落に映った。幸宏さんがデザイナーを務めていた「Bricks Mono」の洋服を見に渋谷のパルコに行き(中学生が着られるような服はないのだがw)、写真集「OMIYAGE」で教授がきていた、「BALL」のトレーナー買いに行ったり、音楽=ファッションと切っても切れない関係になった。

ちょうどその頃、家の近所に雑貨屋さんができた。雑貨屋といっても日用雑貨の店ではなく、渋谷にあった「文化屋雑貨店」の商品や輸入雑貨を揃えた店だ。その店の社長Tさんは非常にアウトローで面白い方、店長は音楽好きのA兄さん、当然足繫く通うようになった。特に店長のA兄さんには、「これだけは聴いた方がいいロックベスト10」とか前述のThe Velvet Underground、THE DOORS、Roxy Music、T-REX、The Rolling Stones、SEX PISTOLS、CLASH、David Bowie、The Beatles、S-KEN辺りを半ば強制的に聴かされたwその頃は、洋楽を知る術って雑誌か人に聞くしか手がなかったから今にして思えば、ロックの基礎を教えて貰ったようなものだったな~。A兄さんには無名のストラトキャスターを貰ったりと何かとお世話になりました。
TVでは唯一の洋楽番組?小林克也の「ベストヒットUSA」この番組でみたBowieの「Ashes to Ashes」のMVは今でも鮮烈に覚えているし、T-REX特集なんかもやってたと思う。A兄さんに借りたDOORSのレコード「ハートに火をつけて」の歌詞の日本語訳をみた時、ジムモリソンの抒情的で哲学的な詞は当時の僕には理解できなかったけど、しっかりと影響を受けているのは確か。

そして貰ったギターで練習するのだけど、ひきにくくて一向に上手くならなかったw
PUNK好きの友達SSとバンドやろう!なんて盛り上がっていたのに、余りにも下手で、SSは別のヤツとバンド組んでた・・・泣
で別の友達とバンド組む事になるのだけど、その友達が凄い不良なS君www
不良なのにYMOが好きでパットベネターを聴いているという。自分の事をニューウェーブヤンキーと言ってたw
ニューウェーブヤンキーのS君とは、意気投合してロカビリーなんかも聴いた!エディ・コクランやStray Cats!そして文字通りニューウェーブのJAPANを聴いたり、ほんと良く遊んでました。毎月のように洋服を買いに都内に出かけたり、僕の音楽とファッションの歴史にはかかせない人です。ニューウェーブヤンキーw
JAPANといえば忘れちゃいけないのが一風堂の土屋昌巳さん!一風堂も好きだったけど、JAPANでひいていた姿は非常にカッコ良かった!
関係ないけど一風堂といえば渋谷にあったディスカウントショップ!バンド名の由来はあの店からだったとは知らなかった!M-AGE時代よく、かっちゃんと買い物に行きましたw

肝心なアーティストを忘れていました!佐野元春さんは中学時代ほんとに良く聴いた!3つ上のいとこSEさんが聴いていたのが最初の出会いだったかな!?A兄さんにもナイアガラトライアングルVol.2っていう大滝詠一、佐野元春、杉 真理、3人のトライアングル企画盤を聴かされた気がするw

バンドは一緒にできなかったけど仲がよかったSSとは、一緒に「爆裂都市 BURST CITY」っていう映画を観に行った。「スピード・ロック・暴動」の映画で、中学生には過激に写ったものでしたwミュージシャンも多数出演していてロッカーズの陣内さん、ルースターズの大江さん、池畑さん、INUの町田町蔵さん、そしてスターリン!なんとも豪華なキャスティングでサントラ版も買ってしまった!!当時スターリンは色々な意味で話題になっていたものの観る術がなかったので、映画で観られたのは良かったです!豚の臓物投げるとことかw
そして面白かったのが、田舎の映画館では良くあった事ですが、同時上映があった!そこまでは普通なんだけど、「水のないプール」っていう内田裕也さんが主演で仙台クロロホルム連続暴行魔事件に着想を得た内容、成人映画扱いだったので、映画館入る時、止められないかドキドキもの。内容もある意味過激でしたw

ちょうどこの頃、自主制作なんて言葉を聞くようになった、スターリンの自主制作盤が即完売、なかなか聴く事もできなかったっていう時代です。インディーズって言葉を聞くのはもう少し後の事。
つづく。


MIYO-KEN

今は音楽雑誌って相当減ったけど、当時の僕にとって情報を拾うには音楽雑誌が全てだったと思う。

TVは今も昔も変わらないし(今の方が酷いけどw。毎週日曜に放送されていた大石吾郎の「コッキーポップ」は楽しみだった)、ラジオはいろんな番組あったけど、茨城の山の中まで電波が届くのは、唯一水戸放送曲からのNHK FMくらいだった。
勿論エアチェック(放送をカセットテープに録音する事)なんて1ミリも考えられなかったな、水戸放送局の番組でさえジージーいってたからねw。

音楽雑誌の種類も洋楽、邦楽、月刊、季刊、教本問わず沢山あったと思う。
雑誌の傾向で付録も違って面白かったけど、カセットレーベルが多かったのかな?
カセットテープ全盛だしね。FM番組系の雑誌の付録はこれが多かったようなw
因みにカセットテープはソニーのBHF派だった(緑のやつね。)
教本系は必ずソノシートね!(ソノシートは前述したかな?)

ツアーの情報なんかも事細かに記載されていて、ここで情報拾ってライブ行ったり。
ほぼ水戸で、たま~に日立w。
そりゃそうだ、僕の出身の高萩市に市民会館がやっと出来たかどうかの時代感だし、まして出来たばっかりの会館でライブとか考えられなかっただろうしね。あ、当時ね、今じゃないよw。

水戸までは電車で約1時間。県庁所在地で水戸黄門でも全国的に知名度高しの水戸。決して茨城じゃなくて水戸ねw。そういう意味じゃ日立も同じか。
親戚のお姉さんに県民文化センターまで連れてってもらって大興奮で見たツイスト、演奏中に世良さんが高くギターを放り投げてそれを見事にキャッチしてさらに弾き始めるという、アクロバッティーなシーンは今でも脳裏に焼き付いてます!ギターはギブソンだったのだろうか??前回書いたけど今や田園調布、渋谷の松濤ですからね!!

長渕剛もバンド付ける前のライブ(現在のような和製ブルーススプリングスティーンではなく、所謂フォークシンガー然としたスタイルで弾き語りで全国をまわっていた)を見たり。

当時の地方都市のプレイガイドってどうなってたんだろう?
すでにチケットぴあはあったはずだけど、地元のレコード店や本屋で、ホールの座席表を見せられて空いてる席を買った記憶があるんだけど、もちろん予約なんて無しで。
おそらく、各店舗で座席の持ち回りがあったんだろうな。

小遣いで賄いきれない音楽雑誌は、地元の田所書店に入り浸っては眺めていたと思う。
今も本屋は大好きでよく眺めに行くけど、専門系(ギターマガジンなどのプレイヤー目線のもの)は除いてほんとに音楽系の本は減ったよね。それと最近感じるのは雑誌自体のサイズがどんどん小さくなってる事。いやいや文字が見えませんから、、って感じる方も少なくないでしょう??

そんな中、ここ何ヶ月か悩んでいた問題(前回のスライドバーの件)が解決された。

それは地元にあった「みのわ楽器」にギター弦を買いに行った時の事だった。

そこのショーケースには、中坊には絶対手の届かないエレキギターや、ピッカピカの管楽器が陳列され、何時間でもいられる様に感じたものだ。(もちろん今でも楽器屋さんは何も買う予定がなくても楽しい場所だし、見ると欲しくなるのでなるべく素通りするようにしている)

もちろん楽器だけじゃなくて、レコードや様々なアーティストの弾き語りコード本なども置いってあった。

そこで見つけてしまったのだ、ツイストのギターコード本!!
その中の1曲に前述した『SOPPO』が!!!
もうすぐにでも買いたかったが、お金が、、、

もちろん耳コピでコード進行は把握している。ほぼ正解だ!
コピーを間違えてなかった自分に感心しながらも、譜面を注意深く見てみると、そこに記されていたのは注釈付きの『G』コード。。

え~っ、どっこも押さえないで『G』???

ここで軽く解説を。ギターはアコースティックでもエレキでも基本的に太い弦から順に、「ミ、ラ、レ、ソ、シ、ミ」でチューニングするんだけど、この注釈にはこうあった。
「レ、ソ、レ、ソ、シ、レ」。。えっ??

なんと~~、チューニングで既に『G』コードになっていたのだ!!!!

もう頭の中はお花畑だ。弦高が高いフォークギターでなかなか出来なかったFのコードフォームが指1本で可能なのだ!(ちょい早口で興奮気味な画を想像して頂ければw)
指1本で3フレットを押さえると、フォークギターでは鬼門(あくまでも当人比だが)のB♭になるのだった!!
指1本で曲が弾けるなんて「、、プロってずるい」とは思わなかったけどさw。

もう目から鱗状態。
今となっては何て事のないオープンGチューニングなのだが、いがぐり頭の中坊にとっては、とてつもない発見だった。まさしく冥王星発見的なねw。

続く。。


OKAZAKI

YMOも大好きです^ ^

中学生になりThe Beatlesのコピーバンドの話はしましたが、その反面YMOも大好きでした♫
近所の同級生も、音楽が好きで良くツルんでいた。
その彼の家に行くと、必ず最新の音楽や自身がハマってる音楽を教えてくれた。
その中でもオレの心が踊ったのは、イエローマジックオーケストラ♫
中でもパブリックプレッシャーっていうLive albumがお気に入りだった。
針を落とすと、ボコーダーで始まる「We are Yellow Magic Orchestra 」もうこれだけでテクノ!!ってなる。
興奮する♫
最新のテクノロジーを使って奏でる音楽!カッコいい。
M-ageにも反映されていると思います♫

高校生では、ベストヒットUSAやMTVなどを見て最新の情報を得ていた。

完全に海外へ目がいっていたオレは、この後 幼なじみのKoichiroと再会して日本のインディーのアーティストを知り、度肝を抜かれるわけです。ハイ💦
ARB、ルースターズ、ボウイと色々教えてもらった♫
カッコ良かった^ ^
自分はドラムなので、ドラム目線で聴いたらやはり、ルースターズやボウイに耳がいった。
池畑さんのビート感や、高橋マコトさんのビート感がやみつきになった。どうしたらあんな高速なエイトビートが叩けるんだろう?🤔
毎日考えてたなぁ~
考えてるのが本当楽しかった😆


DJ PEAH

16歳の時その道に入ったわけですが、同級生の友達はロカビリー、パンクのファッションでしたね。唯一同じファッションで同じ道を歩んだ友人がいました。
当時ヒップホップユニットを組んでいたパートナーのMC PYU(ピュー)というラッパーです。何をするにもいつも一緒に行動してましたね。

学生時代から上京までの経験は忘れられません。『ラップに思いを込めて』NHKのドキュメントにも取り上げられたこともあります。その相方ピューですが、しゃべくりに訛りがありました。なんというか雰囲気がピコリンに似ています(本人にも話をしたことあります)
私がバンド(M-AGE)に加入後はずっと会えませんでしたが、M-AGE解散後、DJとして参加したCOLD CUT来日ライブの時にばったり再会。少しだけ話ました。
ずっとアメリカに放浪していたらしく以前と変わった雰囲気だったと記憶しています。本当にありがとう。

ヒップホップを貫き活躍している当時の仲間も多くおります。初心忘るべからず、純粋さを忘れないでほしい。

探求心は大事ですね。

TALK ABOUT…MUSIC #04

KOICHIRO

TALK ABOUT…MUSICシリーズを再開するとお達しがあったwので今回は少し細かく書いていこうと思う。
僕がシンセサウンドを好きになったのは、最初に聞いた冨田勲氏とYMOのレコードの影響が非常に大きい。M-AGEを解散した後にシンセを買い漁る事になるとは、この時は露とも知らずw
YMOに出会う前は特撮ヒーローもの、アニメや歌謡曲を普通に聴いていた。いま思い出す限りのヒーローもの、仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズ、人造人間キカイダー、同01、超人バロム1、イナズマン、同フラッシュ、レインボーマン、スパイダーマン(東映版)、解決ズバット、レッドバロン、マッハバロン、ミラーマン、スペクトルマン、シルバー仮面、ファイヤーマン、トリプルファイター、宇宙鉄人キョーダイン、大鉄人ワンセブン、解決ロックバット、、、時系列はめちゃくちゃだけどw
アニメはハンナバーバラもの、デビルマン、マジンガーZ、ゲッターロボ、勇者ライディーン、コンバトラーV、ダイターン3、トライダーG7などなど、これらの主題歌をほぼほぼ歌えたw 朝、学校に通う通学路でこれらの歌を歌いながら学校に通っていた(しかも結構な大声でw)。
当時、音楽と言えば、テレビが主流の時代、歌謡曲を当たり前に聴いてた。ヒーローもの以外で最初に買ったのは渡辺真知子の「唇よ熱く君を語れ」当時、資生堂のCMソングだったこの曲、てんとう虫型のミニレコードプレイヤーが壊れるほど聴いた思い出があるw
歌謡曲で好きだったのは、久保田早紀の「異邦人」、ツイスト「SOPPO」、ゴダイゴ「銀河鉄道999」など、チャーさんに至っては「気絶するほど悩ましい」「闘牛士」この辺が好きだった!
そしてこの頃かな?まだ中学になる前、初めてYMOの「ソリッドステートサバイバル」を聴いて衝撃を受けた!当時はYMOのような音楽を知る術もない時代、ジューシーフルーツとかヒカシュー辺りを同列で聴いていたかな!?

小学生の頃はクリスタルキングの「大都会」って曲の高い声が出ていて、誰にも言わなかったけど、ちょっとした優越感だったwそれが中学生になった頃、急に声が出なくなった…そう声変わりで急に高い声が出なくなったのだ!これも誰にも言わなかったけど、当時は結構ショックだった記憶がある!なんせ昨日まで歌えた歌が歌えなくなるんだから!
まあでも中学生になった頃は他に刺激的な音楽に出会った時期でもあったので簡単に乗り越えた気がするw

そして中学になると他に刺激的な音楽と沢山出会う事になる!一応、バスケ部に入部して練習とか真面目にやってたけど、部活とクラスが一緒な友達と、ある曲がきっかけで仲良くなった。その友達はPUNKやROCKが好きでSEX PISTOLS、The Clash、そしてアナーキー、RC SUCCESSIONなんかを聴いていて、僕が好きな教授と清志郎さんの「い・け・な・いルージュマジック」がきっかけで仲良くなった!でPISTOLSを聴いた時はYMOと同じくらい衝撃だったな!
中学になった頃、髪はテクノカット(要は刈り上げ)にしていたがPUNKを聴いてからは髪を逆立て学校に行った(部活の関係で髪が短いからw)それまでアシックスやチャンピオンのスポーツTシャツ着ていたのに「GOD SAVE THE QEEN」のTEEシャツを着てバスケの試合に行ったりして別の意味で目立つようになったw

不良全盛期の時代だったので目立つと今度はイジメにもあった!今の時代のような陰湿なイジメじゃなかったし、友達も大勢いたから不登校にはならなかったけど、その後、不良達ともロカビリーの話で仲良くなったりしてw
中学時代のエピソードとしては、当時、日本の音楽雑誌に良く掲載されていたJAPAN。
YMOとの交流もあってかアルバム「Quiet Life」では音楽的にもルックス的にもガラリと変わり非常に好きだった・・・けどルックス重視の女子人気が凄まじかったのでJAPANが好きって言えなかったな~ミーハー的に思われるのが嫌で「隠れJAPAN」でしたw
中学時代に聴いたのは、東京ロッカーズ(LIZARD、Friction、S-KEN)、ARB、アナーキー、THE ROCKERS、The Mods、THE ROOSTERS、etc…
洋楽は、SEX PISTOLS、CLASH、David Bowie、JAPAN、U2、DURAN DURAN、The Velvet Underground、THE DOORS、etc…

YMOを聴いて「シンセサイザーに首ったけ」という本を買ってみたものの何が書いてあるのか全く理解できなかった中学時代、シンセは高いという事だけは理解した^^
それがギターに向かう最初の理由だった。


MIYO-KEN

前回はどこまで話したかな?
確か中2位で終わった様な。。
今回も長くなりそうです、、お付き合い下さいませw。

前途したが、この時代はロック御三家(チャー、ツイスト、原田真二)に加えゴダイゴ、甲斐バンド、サザンオールスターズなどが登場し、ヒットチャートを席巻していた。
どのバンドも積極的にTVに出演してくれた。

(甲斐バンドは除いて。『HERO』が腕時計のCMだったかに使われて大ヒットした時にTBSザ・ベストテンに登場した。確かライブ会場からの中継だったと記憶しているのだが、そこで甲斐よしひろ氏は一言。『TBSが勝手にやってきやがって、、』的な発言。いやー、坊主頭の中坊には痺れた一言だったが、そんな事TVで言っちゃっていいの?と思ったのも事実w。)

そんななか、ツイストの『宿無し』『銃爪(ひきがね)』(この時は世良公則&ツイスト)、『燃えろいい女』が大ヒット。
ツイストが出演するTV番組を見逃した日には、本気でガッカリしたものだ。
ビデオデッキが世に出回るのはまだまだ先の話で(これを読んでくださる皆さんはご承知だと思いますがw)再放送でもない限り二度とお目にかかる事はなかった。
現在はYouTubeで当時の歌番組も余裕で視聴することができるし、もしデロリアンが本当にあったならその時代に戻ってノープロブレムと伝えるだろうw。

そんな『銃爪』それはもうイントロのギターリフから背筋がゾクゾクする程の極上ディストーションサウンドだったし、『燃えろ良い女』のダブルネックギターから繰り出される透明な12弦サウンドは、弦高がやたら高いフォークギターしか手にした事のない中坊には『憧れ』以外にぴったりはまる言葉は無かったと思う。
ツイストの太刀川さん、ゴダイゴの浅野さん(去年お亡くなりになられました、、ショックでした)が『燃えろ良い女』、『ガンダーラ』でダブルネックを使用しておられました。

あっ、「ダブルネックってなによ??」て思う方も多いですよね、すみません、説明してなかったですね。
簡単に言うと、ネックが2つあるギター、ってそのままなんですけどw。
もうちょい突っ込むと、片方が12弦、もう片方が6弦で1台で二度美味しいいギターの事です。
ジミー・ペイジで有名なあれです。とはいえ僕の中ではこのお二人なのですが。
どうなんだろう、当時のグレコやアリア(日本が誇るギターブランド)で12弦モデルってあったような気もするが定かではないです。本家は勿論ギブソンのSGダブルネック!

そんなギブソンの代表モデル、レスポールをツイストの松浦善博さん(太刀川さんの脱退後に加入)は多数所有し、ライブでもガンガン使っておられました。僕のゴールドトップ好きは、この時の憧れの延長で僕が現在所有してる2本のレスポール、シングルコイルとハムバッカーのものだけど、何方もゴールドトップ!
勿論僕のは違うけど、1959年に生産されたモデルなどは、当時からめちゃ高価ではありましたが、現在は程度の良いものなら「田園調布に家が建つ!!」って価格です。
えっ、例えが古いって?
すみません、「笑って許して」下さいw。

松浦さんといえばボトルネックギターの名手!
ツイスト『SOPPO』でのスライドプレイを初めてTVで見た時はもう驚いたのなんのって、もうすぐに弦高の高いフォークギターを手に取り台所にいってスライドバーの代わりになるものを物色したくらいw。
とはいえ父はお酒を全く飲まなかったので、ウイスキーの空き瓶などある訳もなく、たとえあったとしても、瓶の口の細いところを切り取る術もない訳で。
そこで僕が発見したのは『?』マークのマジックインキ。この件は前途したかもしれないけど、中身をくり抜いて中指にはめてキュイーンと、うーんめちゃ良い感じ!(フォークギターなので決してギュイーンではない)

ここまではしてやったりで満足だったのが問題発生。

しかも大問題だ。。。

「えっ、中指にはめちゃったらコード弾けないんだけど、、、」
「TVでははめたままでバッキングも弾いてたよな、、、、」
「、、、、プロってすげ~。。。」

今でこそ簡単にネットでちょいちょいと調べられるが、いがぐり頭の中坊がその全容を知ることになるのは、もう少し先の話だ。。

次回に続く。。


OKAZAKI

ということではじまりました♫

えっと…初めて買ってもらったレコードは
「黒猫のタンゴ」です^ ^

前回のお話しでは小さい頃から音楽には
慣れ親しんでいた的なことを書いたと思いますが
ホント時間があるとレコード聞いてました♫(^^;;

カスタネット、タンバリン、リコーダー、アルトリコーダー、合奏会がありその時はアコーディオンを…と音のなるものは全てに興味がありました🎼
もちろんテレビでは歌謡曲全盛期だったのでキャンディーズ、ピンクレディー、中3トリオ、麻丘めぐみ、新御三家……たくさん好きでした^ ^
もうその頃はポータブルレコードプレイヤーはなくなっていて、レコードの存在も忘れてテレビ三昧でした。小5の頃急にまた、レコードが聞きたくなり久保田早紀の「異邦人」とか水谷豊の「カリフォルニアコネクション」とか、小遣いを貯めては買ってました。
その頃流行った田中せいじさんの「ビューティフルサンデー」が、テレビから流れたんだけど海外の方が歌っているバージョンで『アレレ?この曲は日本の曲じゃなかったの?』って知り、意外とカルチャーショックな感じになりました(^_^;)
それからは、どんどん洋楽と言われる海外の曲に興味がわいていった気がします。
そんな中(コレも以前のコラムに書かせてもらったが)The Beatlesのコピーバンドに、誘われてドラムを始めたんですぅ🥁
その時、既にThe Beatlesは解散していました。
なのでオレは、後追いで楽曲を知るわけです♫
最初は誰がポールで、誰がジョンなんて訳も分からず聞いていたのでした。
何度も何度も聞く…するとどうだろう?
『この曲はさっきの曲とリードボーカルの人が違う!』なんてわかってきたりして楽しかったぁ♫

あ、ちょっと自分の音楽人生でもう一つ深い関わりのあるエピソードがあったのを思い出したので少し戻らせて頂きますね(^_^;)

小5の時、とても胸キュンな思い出がありました。
春休みに親戚の家に行った時のこと…
従兄弟に連れられて、遊びに行ったらグループデート☆だったぁ(o^^o)
その時、初対面のオレに気遣いしてくれた女性たち全ての方々に惚れた…笑
帰りに、そのお友達の中の1人のお家にお邪魔する事になり、紅茶を頂きみんなで雑談していると音楽が流れてきた♫初めて聞く歌声と楽曲!
オレは直ぐに「これ誰?♫」って聞いた。
すると彼は「まっとーやゆみ」って言った。
『ん??今なんて言ったのかなぁ』でも聞き返すのも申し訳なぁい雰囲気だったので「まっとーやゆみね!」って返した💦
実家に帰っても、グループデートの思い出と「まっとーやゆみ」の曲が耳から離れない…居ても立っても居られなくなり、従兄弟に電話してお友達の家の電話番号を聞いた。そしてアルバムタイトルと、今一度アーティスト名を聞こうと電話したのだった。
すると「まっとーやゆみのアルバムだよ♫」って教えてくれた♫
でもまた聞いてみた「まっとーやゆみのアルバムだよ♫」って繰り返しの返事だった…(・_・;
ちゃんと聞いておかないと、この後でレコード屋さんに行って購入出来ない!と思ってので勇気を振り絞って「ごめんね、今メモしながら書いてるからゆっくり言ってもらえる?」って言った。そしたら「まつとうや ゆみ」の「アルバム」ってタイトルのアルバムってことがわかった。
急いでレコード店へ行き買った。内容は言うまでもなく最高だった♫
このアルバムは、荒井由実から松任谷由実になる時に記念されて作られたベストアルバムだった。
聞けば聞くほど甘酸っぱく、胸の奥がキュンとなる作品集です。もちろん今でも聞いています。
「卒業写真」や「中央フリーウェイ」等が収録されている。
小5のオレはなんか物凄く成長した感じがした笑

その時テレビで良く流れていた曲はキャンディーズの春一番だった♫


DJ PEAH

いやーまた始まりました。本当に過去の話苦手なんですよ。赤っ恥かいたエピソードばかりでね。地味なDJを貫きたい!なんてね。。

当時は携帯もない時代、小、中学生の暇潰しはTVがメインでした。そこで流れてくるのが、60年代70年代歌謡曲だったり、よく見たアニメ主題歌が頭にある中、自宅姉の部屋から聴こえてくる音楽に最初は影響をうけました。

長女姉はTSUBAKI HOUSEに通っていたためか、ニューウェーブにはまってましたね。次女姉はロカビリー族でしたので、また聴く曲も違いました。
そんなこんなで、私も成長していきました。よく通っていたブティック(オゾンコミュニティ、デプト)の店内で流れていた音楽(MIXテープ)を店員にもらってからというものDJを知る。
この辺りは以前シンコーミュージックから発売したM-AGE MIXにて話してますので是非。
MIXテープですが、その中身というとパンクロック、レゲエ、スカ、ファンク、ヒップホップ、1つのテープに凝縮されてました。
国内ではMELON.TINY-PANX.いとうせいこうをよく聴いていましたし、DJセレクトチョイスしていました。私にとってヒップホップサウンドが一番フレッシュで入ってきた時で、今でもリスペクトしています。

Eric B & Rakim . PE . LL.Cool J . ColdCut . RUN DMC .
耳にたこができるほど聴いていた。

これ以上のサウンドはないくらいな気持ちでしたよ。
なんなんだろうね。サンプリングなのかな?生楽器や生声で表現できないサウンドがとにかく斬新でした。
今でもその表現を活かせればと思いながら作成しております。今ではあからさまにはできませんけれど、ダブな手法で活かしたいものです。

TALK ABOUT…MUSIC #03

KOICHIRO

そして現在、様々な出会いや別れ、そして色々な事を経験し、みんな大分大人になってたw
こうやって始めてみると、そこには変わらないメンバーがいて当たり前の音を出している。

僕は昔から自分の声が嫌いだった。僕の好きなボーカリストはみんな低音が出るボーカリストばかりだったからだ。だけど再結成していざ歌ってみると、そこには誰かに憧れを抱いていた自分はいない。さすがに自分の声に諦めがついたのか、後はどこまで自分らしく歌えるか?そんな事ばかり考えながら歌っている。そして最高に楽しいです。喉の問題もあるけど今は出来る限り続けたいと思ってます。


MIYO-KEN

12歳の冬にギター(アコースティック)を手にしてからは、掌を返したように野球には1ミリの興味も無くなってしまった。それまでは高田繁(ジャイアンツの名選手。第一期長嶋監督時代にレフトからサードにコンバートされて話題になった)の青いミズノの指出しグローブが欲しい物リストのナンバーワンだったのに、それは100位圏外に消えてトップ10入りしたのはギターに関する物、聴きたいレコード、と、少しばかりのエッチな本だった(まだまだ可愛いもので、「けっこう仮面」で喜んでいた。注釈付けたいけど興味ある人は調べて下さい。永井豪の傑作で実写で映画にもなってます)w。

小6で同じクラスだった清水君は僕より半年ほどギターを弾き始めたのが早く(後にバリバリのヤンキーになってバイクに乗るのも、事故るのも、結婚するのも、起業するのも早かった。僕のデビュー後に実家に訪ねて来て母に名刺を置いていったっけ、その裏には頑張っての一言が添えてあった。嬉しかったよー。後にも先にもギターを教わったのは彼だけかもw。元気かな?)、少しだけ年の離れたお姉さんがいて、彼女の影響だと思うが小6ながら井上陽水、かぐや姫、吉田拓郎、グレープなどを聴いていて、それらの曲をギターを弾きながら僕に歌ってくれた。いやいやめちゃすげ~ってなったよ、こっちは始めたばっかりでAmとEmしか知らないのに、Fまで押さえてアルペジオやスリーフィンガーでやるんだからさ!!

そんな彼とは中学は別々になって、さほど会うこともなく(会うのは野球の大会くらい。当時の田舎の中学は何かしらの運動部に入るのが暗黙の掟の様な風潮があった。僕も彼も野球部を選択)、テレビやラジオ、雑誌などから情報を得てギターと歌wの練習に励んだ。
グレープ解散後のさだまさし、長渕剛(当時は今の風貌からは想像できないくらいの好青年的ルックスw)などアコースティックギターがフューチャーされた音を聴いていた。

長渕剛の名曲「夏祭り」が弾けるようになるまでには相当な練習が必要だった。右手の爪を伸ばし、野球部の監督に怒られながらも(ボールを投げるので生爪を剥がす等の怪我する確率が高くなるため御法度)、それこそ左手の指から血が滲む位の練習をした。「好きこそものの上手なれ」ってことわざあるけど、自分で言うのもなんだが、まさしくこれを体現してたと思う。指が痛くても全然苦にならなかったし、多分この時が練習量的にはMAXだったんだろうなw。

今でもさだまさしは好きで、「朝までさだまさし」(NHKの番組)とか見るよw。
「まほろば」って曲があって、歌詞も歌唱もめちゃ凄いのでYouTube等で見て頂ければ。
是非ライブバージョンで!!

アコースティックな流れでフォークな話だったけどw、いつかはエレキって気持ちも持ち続けていて、ツイストはずっと僕のアイドルだった。アルバム、シングルは全部持っていたし、水戸の県民文化センター(後にM-AGEもここでライブをやる事になる)までライブを見に行ったり、先日、全曲解説のMOTHERでも話したけど、日立市民会館で渡辺香津美を見たり。

坊主頭にアディダスのウインドブレーカー(かなり古い呼び名w)を着たド田舎の少年にとって、ステージに立つ人たちは、それはもう雲の上どころか、地球外生命体ってくらいに何億光年も遥か彼方の異次元の住人であって、瞬きをするのも惜しむくらい彼らの一挙手一投足をガン見していた。

とはいえエレキを手に入れるのは高校に入ってからの話で、そんなエレキギターなる代物は、毬栗頭の中坊脳内で強い憧れとともに、ジュラ紀の恐竜のごとく、こんな感じで有ろう的な想像上のモノでしかなかった。

こんなエピソードも。ツイストの歌本(一応楽譜になっていてコードやギターソロが採譜されている)を手に入れジャガジャガやっていたのだが、どうにも飽き足らず事もあろうかアコースティックでエレキのソロを弾いてみようと、かなり背伸びをした挑戦を試みた。
フレーズを口ずさめる位にレコードを聴き込んでいたので、エアギター的にはバッチリだったし、自分の弾けている姿の脳内変換も100%完了済み。

しかーし、譜面には音楽記号にはない謎のアルファベットが、、???? えっ、なにこれ、cho??、やたらと出てくるんだけど。

なんてことはないただのチョーキング(弦を指板上で押し上げて音程を上げるテクニック)なのだがアコースティックしか弾いたことがない中坊にとっては未知との遭遇であった。
弦の太さがエレキとアコースティックではまるで違うという事すら全くもって知る由もないわけで(弦が細ければ細いほど容易になる)、めちゃ太い弦でチョーキングの真似事をし、自分の弾けている姿の脳内変換、ほんの2%も達成できなかったのは言うまでもない。

この時思った事。プロは指の力も一流でなくてはならない!!
どんな練習をすれば指力が強くなるのか? 生まれつき俺の指力は弱いんじゃないのか?

いやいや、マジで悩んだww。

エレキを手に入れて初めてチョーキングした時にマイケルシェンカー(2音半チョーキングとか平気で速弾きに盛り込んでくるスーパーレジェンドギタリスト。白黒ツートーンのフライングVでお馴染み)並みに音程が上がった事は想像に難なくないw。

ダメだ、3回じゃ書き切れないや笑。

まだ洋楽と出会ってないし、中学も2年生位の話だ。。

またの機会に話の続きをしよう。皆さん興味があればの話だが笑。


OKAZAKI

ん?…いやいや!
先日言った色々な誘惑の中に幼馴染だったkoichiroから今度バンドやるんだけど演らないか?と誘われて、それからは日本のロックではザロッカーズやルースターズ、BOOWY、海外ではThe Rolling StonesやDAVID BOWIEなどにドップリハマっていった。
オレの家が練習場所だった♫

それからはみなさんご存知のM-AGEになっていくわけです♫

ということで自分が影響を受けた作品のご紹介で御座います♪♪
01.The Beatles/With The Beatles
02.The Rolling Stones/Love You Live
03.BOOWY/INSTANT LOVE
04.The Roosters/The Roosters
05.The Beatles/The Beatles(White Album)

まだまだお気に入り作品が沢山ありますがいつかまたご紹介出来ればと思います~♫


DJ PEAH

最初は先輩のミキサーを譲ってもらい、家にあるプレイヤーを使って DJプレイ、テクニクスのプレーヤーじゃないので耐久性なし、アルバイトしてお金を貯めて mark2買いましたね。機材がそろってからは毎日触っていました。恋人みたいに・・・。

レコードは2枚買いが当たり前、2倍2倍(高見山大五郎)本当にHIPHOPは金がかかります。 この当時1988年でDJの大会に興味を持ち始めます。DJバトルやDMC大会にも出ました。

そんな中HIPHOP仲間だったユウ・ザ・ロックの紹介で仕事をし、M-AGEのレコーディングに繋がっていきます。

正式メンバーとして加入後は演奏者という立場から、あらゆるジャンルを聴き学ぶようになり好きになったことが多いです。感謝。

TALK ABOUT…MUSIC #02

KOICHIRO

そしてバンドを組む事になる訳だが、最初は歌を歌おうなんて、1ミリも思わなかった。
仲間内では1番ギターが下手だって理由から歌になったw
ドラムは先輩のバンドで幼なじみのOKAZAKIしかいないって最初から思ってて、先輩のバンドだから最初は手伝って~的な流れからメンバーにしてしまえw
って狙ってましたw

その頃、先輩たちにBEATLESやSTONES、そしてBluesの楽しさを教えて貰った時期でもあった。

毎週、日曜にOKAZAKI宅に遊びに行っては録画したベストヒットUSAやTVで流れてきたMVなんか観ながら練習したり楽しかった時代でした。後にカヴァーする事になるマイケルの「BEAT IT」もその頃よく観てた。

時は変わって80年代も終わりを迎える頃、Peah以外の4人になっていた。この4人になってからよく練習し、よく音楽談義なんかもしてた時期だ。週末は皆で飲んで、その後、クラブにもよく遊びに行った。芝浦GOLD、青山MIXとか、音楽を耳で聞くのではなく体で体感できる場所としては当時の僕達にとって最高の空間だった。レゲエ、ワールドミュージック、ハウスそこでは心地よく響いているのである。その経験が自分たちの音楽に真剣に向き合うきっかけになったのだと思う。僕たちの夜明け少し前の話。


MIYO-KEN

小学生の時は御多分に漏れず野球少年だった。。
普通にピンクレディーに熱狂し、キャンディーズでは誰が好きとか(兄姉がいるとピンクレディーよりキャンディーズが好きって人多かったかも)、西城秀樹のアクションすげ~とか、たわいもない話ではしゃいでいる至って普通の子供だったと思う。

ある時までは。。

関東圏のみの放送だったのかな、夕方から、多分、毎日やってたのかな。
「銀座NOW」って番組があってさ、そこに登場した原田真二、チャー、ツイストに圧倒されちゃって。。当時ロック御三家って言われてた方々(何ともまあ仄々した呼び名だけど)です。
モンキーズに嵌ってたクラスメイトもいたけど(再放送だと思うがモンキーズの番組も夕方放送されていた)、僕は圧倒的にツイストだった!!

今ではツェッペリンのギターが云々とか畏まった事言うけど、僕の本当のエレキギターディストーション原体験はツイストですからw。まだこの時は自分でギターを弾くとか露程にも思わず、実際に手にするのはこの体験から半年程先だったと思う。

祖父、父の事は前途したが、そういった環境だったので僕の2人の妹は幼い頃からピアノを習っていた。僕も何度か一緒にレッスンを受けたことがあったのだが、将来の目標はジャイアンツ入団だったので(当時の男児の半分以上は同じ夢を掲げていたw)、たいした興味も持てず流してしまった。この事、今では滅茶苦茶後悔している。あの時きちんと習っていれば、続けていればと何度思った事だろう。今では譜面(簡単なやつねw)の読み書きもある程度はできるようになったけど、M-AGEの解散後に初めてアレンジの仕事をした時は譜面の書き方がわからなくて、とても恥ずかしい思いをした。。和音の理論とかも知らなかったし。。

勿論そんなもの無くても良い音楽は作れるんだけど、初めて会う人と音を出すに当たっての共通言語としては必要なモノだと思ってます。勿論M-AGEでは譜面使った事ないけどね!(使うわけないわ、共通言語は「だっぺ」だし。全てこれで事足りるw)

そんな父が、小6の2学期の終わり位だったかな、『ケン坊(今でもこう呼ばれてます)も何かひとつくらい楽器が出来た方が大人になってから楽しいぞ』と。僕も普通にそんなもんかなって感じでギターを始める事になったのだが、この出来事が僕ら親子の将来を大きく変えるターニングポイントになるとは全くもって想像出来なかった。

冬休みに入ってすぐに、日立の銀座通りの入り口にあった寿屋(質流品や中古を扱う店、後から知ったw)に向かった。僕はその店がどういった類いのそれかは知らなかったし、車からも降ろして貰えずに妹たちとどんなギターを買って来てくれるのかワクワクしながら待っていた。
父にしてみれば僕がギターを続けるかどうかもわからないのに、値段が高いの選ばれてもなんだし、色々と考えてお店に連れて行かなかったんじゃないかなww。

余談だが姪っ子にギターを買ってあげたことがあった。
もう結婚もして立派な大人だけど、彼女が中学の時かな、映画の「Nana」だっけ?中島美嘉のglamorous skyがヒットしてさ、電話かかって来て「いらないギターある?」って聞かれて。
話を聞くと、どうやら学祭でバンドを組んで演奏したいと。

俺的にはさ、家族、親戚の間で頼られるような事は仕事的にも生き方的にもほぼ皆無だったし、「よっしゃ、俺にまかせろ!!」な感じで気合入れて色々と見繕ったのよw。
赤いギターが欲しいって事なので、ジャズマスター、テレキャス、ジャガーなんかをピックアップして画像を送ってあげてさ。そしたら返信で予算云々って言うから、いやいやケンちゃんが(甥っ子、姪っ子にはこう呼ばれてる)買ってやるよ、心配すんな!!って事で叔父さん的な株を上げて、自分がギターを買って貰った時のことを思い出したりして、ほのぼのした気持ちになったり。

新宿の石橋楽器で赤いジャガーと小さなアンプを買って送ってあげた。勿論叔父さんがギターを調整して弾き易くしてね。
その後学祭が上手くいったかどうかの連絡はなかったなw。
ギターを続けた形跡もなかったw。

浦沢直樹の「20世紀少年」の映画が公開された時に、そのギターでT-REX弾いてあげたらスゲ~って絶賛された事もあったな。いやいやムードに拘らなければ誰でも弾けるしw。
そのムードを醸し出すのがめちゃ難しいんだけど。ここ一番大事なポイントね!
おいおい、ギター講座じゃねぇからw。

話戻すけど、そんな12歳の冬に一生を左右する運命的な出会いをしてしまった訳だ。

長くなったので無理矢理まとめる。。

次回に続く!!


OKAZAKI

ドラムを演る事になったけど近所のお兄さんからお古のフォークギターをもらった。
なのでギターも演っていた。っていうよりいじっていた(笑)当時のアイドル雑誌のフロクに付いていた歌本をみまくって流行りの歌を弾いてコードを覚えていった。
ドラムの練習といえばほとんどみていないそのアイドル雑誌が練習台になっていた。
足の練習は…そこまで出来ていなかったのが正直なところかなぁ^^;
ただThe Beatlesの自分が演奏する曲は聴きまくった♫
仲良い友達にカセットに録音してもらって聴いていた。
学園祭で初めて人前で演奏をした。
ご想像の通り、それはそれは楽しかったよ♪♪
そして高校生になってよせば良いのにまた吹奏楽部に入部した。今度は打楽器パートを希望したんだ。この学校の吹奏楽部は女性が多かった憶えがある。打楽器の先輩も女性だった。丁寧に教えてくださった♫
あ、その時のエピソードがある。
入部してすぐに「岡崎くんドラムやってるって言ってたよねー♫ ロール出来る?」って聞かれて、心の中で[ん?よくわかんないけど…今なんて言った?ロール?…。…。…。あ、ロックンロールのことか!!]と勝手に解釈して「はい!!出来ます!!」と堂々と答えたら、ロールとはスネアを連打する奏法だというのは後からわかった。
顔中が真っ赤になって大汗をかいたのは言うまでもない(笑)

それからは学校で練習が出来てスタジオに行かなくてもドラムが叩けることが嬉しかった。
が、時が経つにつれさまざまな誘惑に負けて部活動に行かなくなっていった。
ある時後輩の女子から「先輩!部活に来てください!!」って言われてすっごい嬉しかった♫^_^

野球部の大きな大会にはすすんで参加した♫
何故ならドラムを思いきり叩けるからだ。
ある大会では対戦校の吹奏楽応援のドラムが派手だった。
オレも負けじといつも以上に叩きまくった。
ウチの吹奏楽部の先生は指揮者だったが、岡崎もっと行け!!って感じでコンタクトが大きく振られていた。
って言う高校生の思い出。


DJ PEAH

そんなストレスからか、高校でおしゃれにはまりました。DCよりもパンクファッション、その時、革ジャンは高かったので、モッズコートにヴィヴィアンTを着ているのが当時私のユニホー ムでした。マーチンラバーソールを履き、常にVESPAに乗って走り回る。そんな日々です。

ファッションと同じタイミングで音楽も同時進行。アパレル関係のパーティには必ず顔をだし踊っていた。オールジャンル選曲するDJを見てからあこがれを抱くようになる。その選曲の中でRAPに興味を持ち始めHIPHOPを知ることになった。バンド演奏とDJプレイがごちゃ混ぜで一つになるプレイがHIPHOPのDJだったのだろう。あこがれの先輩とは須永辰緒先輩でした。

TALK ABOUT…MUSIC #01

KOICHIRO

オーディオマニアの父に最初に買ってもらったレコードは「黒ネコのタンゴ」。歌うのが楽しかった最初の記憶だ。小さい頃のフェイバリットソングは特撮ヒーローものばかり、小学校に通う道を歌いながら歩くのが毎日の日課であり楽しみだった。その中でも特に気に入っていたのは、スーパーロボットマッハバロンのOP!今聴いてもかっこいいロックンロール!そしてシンセサウンドも素晴らしい!

11~12歳の頃、父のステレオから流れてきた冨田勲氏のレコード(アルバムは覚えていない)を聞いた時、今までに聞いた事のなかったスペーシーなシンセサウンドに高揚した。
それから程なくしてYMOを聴いた。キラキラしたシンセサウンドにワクワクが止まらなかったのと同時に歌が無い曲を初めて好きになった。

中学生になるとPUNKやNEW WAVE、日本では東京ロッカーズ、めんたいロックなんかも聞いた。バスケットボール部に入っていたが途中から、髪は立てる!TシャツはナイキからSEX PISTOLSに!とヤンキー全盛期の時代に違う意味で目立っていたw

高校生になるとギターを買った!本当はシンセが欲しかったが、その頃のシンセは簡単に買えるような値段じゃなかったって理由。


MIYO-KEN

幼い頃から音楽は身近にあったと思う。父方の祖父が音楽好きだったこともあり(かなり昔の話だが映画になる前の活動写真の時代に、弁士(ナレーション担当)の隣で音楽を奏でる役(BGM担当)でバイオリンを弾いていた。田舎では向かう所敵なしで一旗揚げようと上京したのだが、すごい演奏家が多くてすごすごと引きあげたらしいw)、バイオリン、チェロ、トロンボーン、ピアノ、尺八など沢山の楽器があった。父は嗜む程度だったが、クラッシックや古賀正男全集などのレコードを聴いていたように記憶している。

僕も幼稚園に入る前か後か定かではないが「東京子供倶楽部」なるレコード(確か毎月LPレコード1枚が郵送されて来た。内容はグリム童話などを子供でも理解しやすいように噛み砕いたお話とお歌だったと思う。あれ? EP? ソノシート? と、絵本か?今に残っていれば貴重な資料だが、家を新築する際に母が捨ててしまった。。)やアニメ主題歌大全集などを聴いていた。人気雑誌の「昭和40年男」の読者なら言わずもがな、な「赤き血のイレブン」「リボンの騎士」「キックの鬼」「マッハゴーゴー」など当時の人気アニメの曲が収録されていた。

当時のステレオはというと、というか家電全般に当て嵌まるのだろうが、家具調の馬鹿でかい物が主流だった。現在のなんでもコンパクトに作る風潮とは真逆で、どうなんだろう、当時の大都市の住宅事情とかにはマッチ(死語)してたのかな??テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と言われた時代の少し後だったと思う。

そんなステレオの前で、買ってもらったレコードを開封してまずはアニメキャラが描かれているインナーを飽きるまで眺め、次に盤を取り出しターンテーブルにセット。家にあったステレオはフルオートでは無く、針を落とす時は手動だった。この歳になってもこのアクションは緊張するしワクワク感も半端ない訳だから、子供ながらにテレビではワンコーラスしか流れない歌をフル尺で聴けると言う事に最高の幸せを感じていたのだった。それに飽きると回転数(33、45、78回転。これらを変えると当然の事ながら再生速度と音程がかわる)を変えて早口で歌ってみたり。余談だが、初めてサンプラーを触った時にこの時の記憶が蘇ったw(発売当初のサンプラーは理屈的に同じ)

そんな幼少期のアイドルはもう断トツで麻丘めぐみ!!
今でも年に4回は決まって「めぐみブーム」がやって来てはYouTubeで同じ映像を見ているw
お箸を左手で持つ人を左利きって知ったのは彼女の曲「わたしの彼は左きき」から。曲中にコーヒーを飲む描写は出てくるけどお箸は出てこないよ。「♫意地悪 意地悪なの~」って箇所があって、所謂サビのピークなんだけど、平仮名にするとこんな感じで、「♫いじぃ~っ、わるぅ~っ、いぃ~じぃ~わぁ~るぅなぁのぉ♡」、、もう今でも悶絶w。
えっ、気持ち悪い? いやいやみんなあるでしょ? 特に男子はね、こういうのw。
「芽ばえ」「女の子なんだもん」も名曲です。現在はこの2曲の様な内容のものを総じて「喪失歌謡」と呼ばれるらしいよw。ま、言ったもん勝ちなネーミングだけどな。。

しっかし中学出たての女子に歌わせっか?w 山口百恵の「ひと夏の経験」もそうだけど、当時の歌謡曲エグイわw。最近だと、ん、最近でもないか、スピードくらいでしょ?子供にエロい事歌わせたのってw。

この頃聴いたものって嫌でも自分の血肉になってんだろうな。
麻丘めぐみが血肉ってのも嬉しいやら恥ずかしいやら、なんかいやらしいww。

かっこいいやつは山本リンダ、フィンガー5とかでさ、バリバリの16ビートでめちゃ跳ねまくってる曲ね。

ピンクレディーの登場はもうちょい後。

今回はここまで、次回に続くー!


OKAZAKI

まだ物心がつく前からポータブルレコードプレイヤーを与えられていたんだ。
持っていたレコードと言えば子供向けのアニメやヒーロー者のテーマ曲のオムニバスレコード1枚とおまけについて来たソノシートレコード数枚だった。朝から晩までオモチャと言う感覚でずっと聞いていた♫いや、かけていた。
確か…鉄腕アトムやウルトラマン、オバケのQ太郎、ゲゲゲの鬼太郎等々が収録されていた。
2歳~4歳くらいのことだったかな?
先ずコレが音楽とのはじめての出会いな感じ^_^

幼稚園、小学校と音楽の時間は好きだった。
中学生になって吹奏楽部に入部するも「アレレ?マジメじゃん」ってなって夏休み前に退部しちゃった(^_^;)
その後はバスケ🏀 部に入ってた(笑)

音楽の授業もベートーヴェンとかの歴史の事になった途端にダメになっちゃって、中3の時に仲良かった友達からバンドやるんだけどって誘われて、でも何のパート演るかは決まってないの(笑)それで放課後に誰もいなくなった音楽室に行ってみんなで「せーの!!」ってオレの掴んだのがスティックだったって感じではじまったのがThe Beatlesのコピーバンドだった♫

そこからがなんだか毎日が楽しくて楽しくてしょうがない日々がはじまったのかな^_^
The Beatlesがすんなり入って来たのは、やはり小さい時に親にエルビスプレスリーやポールアンカなど50’sを聞かされていたのもあって曲の構成や展開などが違和感なくスムーズに入ってきたのは記憶にある。
あ、そうそうThe Beatlesを知った時にはもう解散してた…(先日、SNSでもM-AGEを知った時には解散していた…ってあったね)(T . T)


DJ PEAH

子供の頃を話します。ませてきたのは中学生くらいから、小学生からやっていた柔道を中学に入っても続けた。柔道部部長でしたので責任がありましたね。また地方出身だったのでヤンキーが多かったんですが、同世代にはいませんでした。2年先輩の代がピークでしたね。ヤンキーとは常に平行線でした。ませていたためよく目をつけられていましたね。たまに柔道部室にヤンキーが来て勝負を申し出てくる先輩もいました。今思えばそれって友好的な交流じゃないか!?と思えてきます。

中学3年生くらいになると髪の毛も坊主から長髪に変わり(IBカット、テクノカット)整髪料を使い始めました(実家美容室だった為)当時学校ではタブーでしたね。そして今度は先生に目を付けられるという。もちろんタバコは吸いませんでした。

TALK ABOUT…BIRD CAGE MV

KOICHIRO

BIRD CAGE っていうタイトルは、昨年8月末のアーティスト写真撮影時には決まっていた。その時点では、まだ歌メロは確定してなかったかな?曲を流しながらの撮影に気分も上がった。後日リハスタでかっちゃんのドラムが決まっていく様子を見ながら、妙に納得する自分がいた。打ち込みオンリーだと生ドラムを叩きながらテンポを決めるなんてあり得ないし、やっぱりバンドなんだと実感した事だ。
11月初旬レコーディング。生ドラムによるグルーヴ感、ミヨケンのギター、Peahのスクラッチ、そして僕の歌が入ると紛れもないM-AGEの音となった。昔と違うのは、レコーディング時間だろう。シークエンスやブレークビーツなどの音は既に出来上がっているので、圧倒的に短時間で臨む事が出来る。昔の様に印象に残るような出来事もないまま歌もドラムもツルっと終わってしまった。
当初からMVをどうするか?が問題であった。この状況の中で撮影するのは困難だろうと容易に想像ができたからだ。緊急事態宣言の解除を待ってからの撮影するか、強行に撮影するか、せめぎ合いの状況だったのは11月も中旬を過ぎた頃。僕が作る事も考えたが、それには時間が無い。そこでミヨケンの知り合いである若手クリエイターの作品を観たところ、BIED CAGEの世界観が想像できた。そこから撮影に入るまで1ヶ月かからなかった。
12月初旬にゲリラ的に撮影を敢行。不謹慎ではあるが、MVの撮影でこういう経験は無かったので気分が上がったのは僕だけではないだろう笑
夜も21 時を回った頃に集合し、23時前に夜の渋谷へと繰り出したその日は、非常に寒かった。非常事態宣言の真っ只中なので、撮影者のみクルーと場所に向かい、他のメンバーは車で待機。僕は最初と最後の出番だったので途中ずっと車で待機、その間一人で渋谷をぼんやり眺めていたのだが、ほんとに非常事態宣言中なのか疑問に思うほどの人が歩いていた。時計の針は24時を回っていた。
最後の出番は渋谷駅前スクランブルでの撮影だ。信号が青に変わったら走って中央まで行きカメラを回し、赤になったら戻るっていうのを何度が繰り返したんだけど、良く警官に止められなかったなと今にして思う笑笑 時計の針が2時を回った頃に終了。
出来上がったMV は想像以上の出来栄えだった。過去と今と未来が溶け合った今の僕たちを上手く表現出来ていると思う。
※世界観についてはミヨケンとのシリーズインタビュー#3を観て下さい。


MIYO-KEN

とにかく寒い1日だった。
去年の12月某日は、間違いなく年末にかけて一位二位を争う寒さだったと思う。
21時過ぎにオフィスに集合して、監督、カメラ、各スタッフと全然関係ない話をしながら、渋谷に繰り出す時間を見計らっていた。
勿論、各メンバーがどういったロケーションで撮影するかは監督の中で出来上がっているので大きな不安は1ミリも無かったと思う。
とはいえ、四半世紀を跨いでのMV撮影である。
当時と同じクオリティー(ここでは肌艶、お尻の大きさなどw)で映像が残せるとは僕ら自身も思っていない訳であり、各々が大人の魅力とは何ぞやと自問自答を繰り返し納得がいった上で(あくまでも個人的なOKレベル)、俺って最高な気分で撮影に臨んだはずだ。
役者が良いのか編集が巧みなのかは、このMVを見てくれた方々の判断が一番正しいと思う。
敢えてどちらかとは聞かないがw

23時少し前だったと思う。二台の車に分乗し渋谷、桜丘へ。
先ずはKoichiroのシーンからの撮影だ。
勿論道路の使用許可など取ってる訳もなく、全てにおいてゲリラ的な撮影だ。
監督、カメラ、僕、事務所スタッフ、そしてkoichiro、通行人がいないのをスマホで連絡し合ってGOの合図を出し撮影スタート。
今回のMVはご覧の通りただ歩くだけ。歩くだけと言っても監督のイメージに沿って歩くのでスピード、目線の置き場所、背中の丸め具合など注意するポイントは少なくない。
夜も遅い時間なので通行人も少なく順調に撮影は進む。
流石に渋谷駅前246を渡る歩道橋のシーンは終電間近という事もあり、通行人込での撮影となり、かえって現在の渋谷を切り取るという意味でリアリティーは増したと思う。平時に比べ圧倒的に人の数が少ないのだから。

二番手は僕。円山町に場所を移して撮影再開。
日曜の夜、しかも終電後だというのに綺麗なお姉さんと不釣り合いなおじさんがホテルから一緒に出てきて、「ありがとう、楽しかったです!またよろしくお願いします。」と挨拶を交わしお互いに背を向け合い別方向へ歩き出す光景を何度か見かけたw
そんな場所での撮影は人の写り込みは絶対にNGなので、カメラをこまめに止めながらの撮影となる。赤やピンクのネオンが多いので場所なので、ロケーション的に困ることは無かった。おじさんはホクホクだろうけど、僕はめちゃ薄着での撮影で激寒だったのだが。。。
もうひとつ気づいたこと。店舗型のお店ってめちゃ減ってるのね笑。

三番手はpeahちゃん。パルコ方面に場所を移して撮影再開。
この場所も渋谷を切り取るには欠かせない場所だ。
終電もとっくに終わってる時間なので通行人はほぼいない。
ここもロケーション、明るさ、お店のネオン的に最高の場所なので滞り無く撮影は進む。
響くのは僕らの声だけだ。行くよーとか、もちょいゆっくりとか、目線はずしてーとかそういった類のね。場所をいくつか移してこのシーンも無事撮影終了。

再度場所を移してokazakiの撮影。
近年、この宮下公園付近は一番変わった場所だろう。青いテントは無くなり、ハイブランドのお店が立ち並ぶ渋谷を代表するエリアのひとつとなった。
ただこの場所は昼と夜の落差が激しい。派手な照明が消えると一気に寂しい場所へ変貌する。
他の撮影場所と比べると深夜の宮下公園は若干地味なのだが、ここも渋谷を切り取るという意味では外せない場所。身を切るような寒さに耐えながら撮影は順調に進んだ。

そして最後はスクランブル交差点での撮影。
信号が青の時間でしか撮影できないので、何度か立ち位置や、表情の確認などカメラテストを行った上での撮影となった。
信号が青になる度に小走りするkoichiroとカメラと監督。しかも薄着。。
僕は横断歩道の端に立ち、信号点滅~とか車来ます~とかADの役割w。
変に薄着なおじさんたちが大声で安全確認し合う、変にシュールな光景w。

四半世紀ぶりのMV撮影は無事終了。

あとは監督の編集を待つばかり。
先ずはカット割のチェックから始まり、CGの入り方の確認などを経て作品が完成。

良いMVが出来たと思う。
ただ歩いているだけなのだが、ここに大きな意味が隠されています。

皆さんそれぞれで感じて頂ければ、これ幸いかとw


OKAZAKI

まだ暑い夏の日だった、そうM-AGEのアーティスト写真の撮影の日だった。
4人が揃って「何か」をするのはホント久しぶりだった。

1人ずつメイクルームへ向かう。何年振りだろう…こういうワクワク感になるのって。もちろん不安もあったりするけど「そんなもんどうにかなる!」ってこの時点で既に思っていた。
昔からそうだがM-AGEメンバーは全員が腹を括るとソレからは速い。「ススメミライヘ」なのだw
最初にメイクルームに入ったのは確かKoichiroだったかな。終わって出て来たら思った通り「スイッチ」が入っていた。「うん!」
他の3人はソレを見て感想を言うこともなくメイクは進んでいく。
その中でMIYO-KENが「ちょっとコレ聞いて欲しいんだけどぉ」っていつものイントネーションでwノートPCと取り出し曲を聞かせてくれた。
そこにはもうMIYO-KENの仮歌ではなくKoichiroの歌が入っている新曲のデモだった。紛れもなく「THE M-AGE」だった♫興奮を抑えて「いいんじゃない」って格好をつけて言ってしまったのを憶えている。照れ臭かったのかなぁwなんだかそんな事も昔の自分に戻っていたのか…恥ずかしいw
何度リピートしたか憶えていないが、相当聞いた気がする♫そう聞いているときは自分のパートのことをイメージしたりして聞くのだが何パターンもイメージが湧くのが楽しかった。

数日してレコーディングになった。あ、その前に1度プリプロを兼ねたリハーサルしたっけ♫^^;
シーケンスや構成、リズムパターンなどを確認、決めて行く。
元々ドラムは生が良いと言っていたのでスタジオで音合わせをするより前から1人でスタジオに籠ったこともあった。
デモのリズムパターンを再現するのと、今の自分を表現したパターンと2通り考えて行った。やはり後者のパターンが採用になった🥁
そしてレコーディングになる訳だが、レコーディングスタジオに入ってからは昔と違い、進行するスピードはメッチャ速かったwあっという間にドラムは録音終了。
歌録りもスムーズに進んだ。
MIXも素敵に仕上がった♫

いよいよMVの撮影だ。
もう季節は変わり寒くなっていた。「撮影するよっ!」てMIYO-KENから連絡が来た。どうなるかは別としていよいよ動き出したんだと実感する。
プランニングや監督どうする?ってのは成るように成るって思っていた。
MV撮影はスムーズに進んでいった。ただ言えるのは、「楽しみでしかない!」ってことだった。
1人1人ソロショットしていく、寒かったこともあって自分のシーン以外は各々暖を取っていた。
自分の番になるまでジッと待った。
なので自分以外のシーンは出来るまでわからないのである。
そもそも気心知れたメンバーなのでどうなるかは察しが付く。
…いやいやこれ以上話したら全てが薄っぺらいものになってしまうのでこれにてドロンです 笑


DJ PEAH

MV撮影では、深夜終電後の渋谷でした。寒い中で野外撮影は、 tearsのMV以来のことです。その当時は撮影時間も夜から朝までかかり大がかりなものでした。今回もそのような意気込みでいたのですが、コロナの影響もあり、新曲の撮影は個人別々で一発収録となりとても撮影は速かったです。

この新曲は正式にベスト盤発売に至るきっかけになったのではないだろうか? 本来再結成してLIVEできたらいいよね。くらいでした。慣れ親しんだ曲を共有して新たにリアレンジしていきました(これはベスト盤には入っていません)便利な世の中になっ たものです。いわゆるリモートですね。そうしてメンバー同士モチベーションを高め制作意欲に変えていったのです。

今回ベスト盤はリマスターということで発表しています。レコード会社にご協力していただいて、このような流れになったわけです。これに新曲 BIRD CAGE が加わっています。

プロモーション写真撮影時に初めてデモ聴いたのですが、初聴き時に思ったのはデビュー曲(call me)に似ていると直感で聴き流したのを覚えています。 Miyoken、 Koichiroで曲を制作、デモの段階でしたが自身がやるべきことを、そこでイメージできたことは、とても縁ある曲だなと改めて感じています。

原曲にアレンジを肉付けしていくやり方ではなく、ほぼ同時進行で完成させた曲ともいえる。
だから余計なものが入っていない。どこかのパンのCM みたいだが、今までできなかったこと(やりたかったこと)はこのことだったんだろう。裏を返せばこの曲だから成立できた。

TALK ABOUT…BIRD CAGE

KOICHIRO

2020年少し暑くなってきた頃、ミヨケンから曲が送られてきた。前に作ったと言うその曲を聞いた直後に「これやろう!」って即答した。そこからデータのやりとりが始まった。今までなら当然、歌詞は最後だったけど、メロディーを作っている段階から歌詞の断片が出来てきた。昔の自分では考えられないけど、2時間位でアウトラインは書き上げた。今を反映する歌詞は、考える予知がないくらい、今がテーマになっている。そして出来上がった「BIRD CAGE」はM-AGEらしい曲になりました。
ここから第三章の始まりです。世の中の流れ的に今後の予定が不透明な部分はありますが、またM-AGE として音を紡いでいきます。この時代にREUNIONできたのは奇跡ではなく必然だったのかも知れません、そして困難な状況だからこそ意味があるのだと。


MIYO-KEN

これ読んでくれてる方々は、誰も思わなかったでしょう?w
まさかの復活&新曲リリース!!
しかも超豪華ボックスセットまで。

ビクターさん頑張ってくれました。
担当の森谷さん、どうもありがとう!心からお礼申し上げます!!

みんなのコメントはほんと励みになるし、とても嬉しいです。
心の底からリユニオンして良かったと思ってます。

まだ始まったばかりです。
これから素晴らしい時間を一緒に作っていこう!!

「♬君とならば~何処へだって~」


OKAZAKI

リユニオンである。素直に「嬉しい」って思った。
痛快に叩かせてもらっています。ニコニコです。🥁
なんか多く語るほど薄くなっちゃってもったいないから、みなさんが感じた事。何度でも良いのでコメント聞かせてください。
そしてこれからも宜しくお願い致します!!

あーまだまだ語りつくせないなぁ。


DJ PEAH

これは今までやったことのない作り方、作曲者Miyokenがトラックを作り構成し、メロディはVo.Koichiroに丸投げみたいな感じだが、どうしてそれこそがうまくいった答えである。アレンジもその流れだ。

TALK ABOUT…BLIND VENUS (CASPER POUND MIX)

KOICHIRO

当時、台頭してきたアンビエント勢に名を連ねていたCaspar Pound 。解散後の発売なので僕がこれを聞いたのは少し後だった。その頃の僕はシンセを買い漁っていた時期だ!JUNO-106,PROPHET-5,SY-85,E-MAX2・・・etc。この話はまた別の機会にw


MIYO-KEN

解散の話はどこでしたんだっけ?
まだみんな学大周辺に住んでたから、駅前のドトールとか?
確か94年の1月中頃だったかな。

そんなに重苦しい雰囲気にはならなかったと思う。
実際に自分たちでも良いアルバム作れたと思ったしね!

精神的に無茶苦茶落ち込んだって事もなかったと思う。
ポッカリ心に穴が空いた事は確かだったけど。

それよりも、やば、来月からどうしよう??的な問題の方がリアルだったw

このリミックス2曲は解散後にリリースされた。

アンダーグラウンドだったテクノが世の中に浸透しつつ、ニルバーナを筆頭にグランジが大ブームを引き起こしていた。


OKAZAKI

それまでこの方の存在は余り知らなかった。ただこの頃のリミックスのあり方が変わってきていた。80’s後半から90’s初期はフロアに向けてリミックスってのが主流だった(もちろんまだまだ沢山あったが)かも知れないがこの頃はミニマムな世界観なものも多くなってきた感じがあった。上がって来たものを聴いたら美しかった、いや綺麗だった。そしてM-AGEも幕を閉じていった。


DJ PEAH

まさに、Wake Up! ポカンと口を開けて何度聴いたことでしょう。朝日が昇るイメージだったり、夕日だったりさ。色々な場面で楽しんでいただけたら幸いです。

TALK ABOUT…STARSHELL (MIKE EDWARDS MIX)

KOICHIRO

文句なしにカッコいい!って言うとそれまでなんだけど、当時のテクノ勢と比べるとかなり独自性が強いミックスになっていると思う。そういえばロンドンのクラブでお会いした事があった!握手はしたが、それ以上は特に会話もしなかったシャイな方だ(人の事は言えない)。そんな中やはり、かっちゃんは馴染んでいたw


MIYO-KEN

帰国してからは、ジャケットの打ち合わせ、MV撮影、ファンクラブイベント等で慌ただしく過ぎて行った。『interface』の評判もすこぶるよくホッと肩をなで下ろした。
実際俺らの中でも手応えはあったし、特に「Blind Venus」においてはM-AGE史上最高傑作と自賛していた。kajiwaraの脱退を乗り越えここまで来たなと。

そんな中12月に予定されているライブのリハが始まった。
今だったらベースのサポート入れるとか、もう一人ギター入れるとかいろいろと思い浮かぶけど、当時は4人でやる事への強い拘りがあったように思う。
それについて話をした事はないけど、みんなそうだったんじゃないかな。
なんか意地というかw

オンエアーイーストでのライブ、内容良かったんじゃないかな。
この時点ではこれが最後になるとは思わなかったけどさw


OKAZAKI

カッコイイ!!彼のセンスはホント好き♫
ロンドンのクラブで彼とキーボードのイアンに会った。僕たちを知っていた。嬉しかった。このころはATARIのPCでCUBASEってのが主流だったのかな?実際オレもATARIでCUBASEだった、聞いたらマイクもATARIでCUBASEだという。ソレも嬉しかった。彼らはRolandのJUNO-106が大好きだとも言っていた。2人に「今度リミックスお願いしたら演ってくれるかな?」って聞いた。ふたつ返事で「OK!」と言ってくれたが正直「ホントかなぁ」って半信半疑だった。だってロンドンに1ヶ月くらいしか居ない田舎者のオレの喋る英語なんて伝わってるとは到底思えなかった。とある日、マクドナルドでメンバーが「チキンナゲット」(だったと思うけど)を注文をしたら「Ha-!?!?」って言われるくらいだもんねww
その後帰国して解散になった中でRemixの企画。この曲が上がって来てマジ嬉しかった。本当に感謝しています。ありがとうマイク&イアン。

原曲はいつものことだが気になる音源を片っ端からサンプリングして行きある程度集まった頃にスピード(テンポ)に合わせてチューニングし、時間軸に揃えて再生する。
今回はコンセプトがあった「リサイクル」♻ 。シンセは使ってなかったという記憶。再利用(リサイクル♻︎)するにあたって色々考えていった。みんなが気に入った音源を無造作にサンプリングしていったのかなぁ…。間奏のスクラッチは録音するときにリアルタイムでオレがフィルターをクリクリしながら録った。楽しかった。


DJ PEAH

いただいたMIXの中でMike Edward Mixが僕の中では一番理想に近くて、Mikeらしいものでした。自然と体が動くようなグルーヴがなにより良かった。その頃テクノよりもミクスチャーなもの、ダンサンブルを好んでいた。今聴いても新しくて、いつになっても体が反応するサウンドです。