TALK ABOUT

TALK ABOUT…STRANGE FUTURE

KOICHIRO

「Blind Venus」のカップリングとして作った曲。nexus7の反動か!?曲の良し悪しではなく精神的な意味で解放されたかったのだろう。
そもそもインストは当時の自分達が聞いていた音楽を反映できる曲として作っていたと思う。メロディーのない曲っていうのも面白かった。
サビの「PEACE OF MIND」っていうワードは早い段顔で出来上がっていて他の部分はみんなでパズル的に作っていったと思う。


MIYO-KEN

「Blind Venus」とともに藤沢にあったイニックスタジオでレコーデイング。

スタジオまではokazakiが運転して行ったと思う。
第三京浜から横浜新道を経て藤沢へ、初夏の良い天気だったのを覚えている。

ここも宿泊施設を兼ねたレコーディングスタジオ。
音もさる事ながら、ここは賄いのご飯がめちゃくちゃ美味いとの評判だった。
いや、実際は評判以上の美味しさだったと思う。
それはもう朝ごはん(正確にはお昼、ブランチというワードもなかったと思う)からこっちもフルポテンシャルで対応しなきゃ失礼なくらいに。
とにかくご飯が楽しみだったw

スタジオのロビーはとても広く、さながら高級住宅のリビングのようだった。
その一角にキッチンがあり板長が腕を奮い(シェフというより板長のほうがピンとくる)、大きな2つのダイニングテーブル、それこそ8人は座れるであろうコーナーソファー、大画面のTV、標準サイズのビリヤード台が鎮座しまるで自分が成功者の様な錯覚を覚えるくらいだった。

そんなソファーでアルバムの方向性やらライブの事を話あったりした。
ん、したんだろう。したよね? したんじゃない??(関白宣言風、若い人は知らないw)

滞在期間は1週間くらいだったと思う。

来るべき渡英に備え闘志を燃やした、93年夏の日であった。


OKAZAKI

この曲は前半Koichiroの歌にメロらしいものがない。コレもやりたかったことのひとつだ。で、サビで弾ける感じにしたかった。Mix時に間奏の「Ah~!」のヴォイスネタの後に「フア’’ー」ってなるシンセノイズがあるが、その音がもっと聞きたくてエンジニアさんに無理を言って音量を上げてもらった。なので面白いことにノイズの音が出るとオケの音が思いっきり後ろに下がる。今は主流になっているバスドラムがなるとオケがその都度、後ろに下がる手法を知らずにしていたのか?いやいやそんな訳ない。笑


DJ PEAH

Single Blind Venus B side。レコーディング入る前に大体こんな曲にしたいねみたいな雰囲気はあった。ネタとシンセ音色作りを事前に組んでおき、スタジオ録音時にトントン拍子で仕上げていった。LIVEやったことあったかな?リハーサルのみ?覚えてない。。。この曲で私RAPやってます。

TALK ABOUT…BLIND VENUS (RELEASE MIX)

KOICHIRO

渡英前に日本でレコーディング。3rdアルバム前は少し余裕があった時期だと思う。シングル候補を何曲か作った僕とミヨケンの2曲をミックスして出来上がった。Motherとはうって変わって、自分たちのポピュラリティーを全て注ぎ込み、気負いなく作った曲。当時の自分達が目指していた到達点だったように思う。しかもS1100とJD800だけでよく作ったと過去の自分たちを褒め称えたい!!
歌詞については「解放」というテーマがあって、これは後のアルバムに繋がっていくワードになっている。残念な事にレコーディング時の面白エピソードは、ほとんど覚えていない。


MIYO-KEN

このシングルというか、3枚目のアルバムの曲作りのために伊豆のキティースタジオで、どのくらいの期間だったかは忘れたけどが合宿したんだった。
ここは賄いがなかったので、合宿初日はokazakiがカレーを作ったのだと思う。
彼はデビュー前からカレーを作ると「カレー作ったからおいでよ!」とよく電話をくれたw
骨付きのチキンカレーが定番で、これがまた美味しくてさ、よくご馳走になったな。

そんなカレーをスタッフ含めて(何人いたかは定かでない)頬張り、翌日から始まる曲作りに向け鋭気を養った!!

ここのスタジオにも宿泊施設があり、温泉もあった。
合宿の最終日には打上と称し、レコード会社からも何人か集まってくれた。
事務所スタッフも合わせると、10数名いたと思う。
この人数でトランプの大貧民をやったのは後にも先にもこれが最後w
マネージャーだった稲葉さんが起こしためちゃ笑える事件もあったな。。
さすがに内容は書けないw

スタジオ作業はほぼ覚えてないけど、こっちの記憶は鮮明だ。


OKAZAKI

いつ聴いてもグッときます。色々な想いが詰まった曲になってしまいました。この曲の凄いところはベースというパートはハイフレットのMIYO-KENのベースのみ。と言ってもギターもアコギがチャラーンと言っているだけなので実質このベース音もギターという位置付けとなって良い。低い音程のものがシンセ以外ないのだ。シンセといっても和音で全音符で出ているだけ。そう4人のアンサンブルで全て成り立っているのである。それまでは音楽というものは足し算で成り立っていると思い込んでいた。いや、引き算することってこんなに素晴らしく隙間ってこんなに楽しんで良いんだ♫


DJ PEAH

Singleになった曲です。アルバムバージョンと違うところはベースドラムがやさしいか重いかの違いがある。PV(MV)ではアルバムバージョンのやさしい方です。この曲は先日koichiro.Miyokenのインタビュー動画でも話しています。

TALK ABOUT…今夜はビート・イット!

KOICHIRO

カバーするなら、もっと違う選択肢もあったと思うけど、これを選ぶ辺りがM-AGEなんだと思う。
歌入れ時間が最短で30分位で終わった気がする。むしろコーラスの方が時間かかった。勢いという意味では、この頃も相当だった気がする。楽しかった記憶しかない。
タイトル表記日本語指定だしw
余談ですが、城ケ崎海岸行ったのは覚えてる!子供みたいに橋を揺らすミヨケンの姿をw


MIYO-KEN

プリプロを済ませ準備万端な状態でビクター山中湖スタジオへと向かう。
エンジニアはその後個人的に大変お世話になる新銅さん(こちらもレジェンド)。
この時が初仕事だったと記憶している。

合宿レコーディングの楽しみはなんと言っても食事だろう。
もちろん店屋物じゃないし、必ず宿泊施設に賄いを作ってくれる方がいらっしゃる。

ここのスタジオの難点をあげるとすれば、少し人里から離れた場所にあるためコンビニがなかった事だ。
その日のレコーディングが終わって小腹が空いても食べるものがなーい!!
おつまみ程度の渇き物と、お酒は沢山あったと思うw

延4日位滞在したのかな?
実は俺、、この時の事あんまり覚えてません。 。 。


OKAZAKI

今聴いても中々カッコいいじゃないですか~w
とにかくサンプリングしまくった記憶。またアイディア無くスタジオに入った記
憶。シンセはベースと16分音符で刻んでる音色だけだったかなぁ。イントロのシンセはそれっぽいサウンドを単音サンプリングしてフレーズで出している。TR909のライドシンバルが入っているがFront242を意識した。スクラッチにはディレイをかけて楽しんだ♫間奏のリズムループのところは今でも好きだ。そこに「ah~!」って出てくるサンプルは…そう、アレである。
とにかくメンバーは楽しんで制作しているのが今でも伝わってくる。SNS等で、聞いてくださった方々もコメントしてくれているが、自分も聴く度にタイムスリップする。

あ、この曲とは全然関係ないが「UNDER THE CUBIC SKY」のオリジナル曲のレコーディングだが、ドラムの録音方法をどうしても伝えたくて書かせて頂きます(笑)
アレは24chアナログテープレコーダーに録音したものを、1小節の長さ分のテープをハサミでバサリと切り、両方の切り端を繋ぎ合わせ、大きなレコーダー本体を2台並べてグルグル再生し、それをデジタル48chのテープに録音したものです。(はぁはぁ…汗)イッキに書いてしまった。とにかくこの手法は、凄い事だったと伝えたかったのです ♫


DJ PEAH

ベスト盤収録曲の中で一際目立っているかもしれない。本当に威勢がいい。この曲はレコーディングスタジオでほとんど作っています。久しぶりに聴いてメンバー自身もびっくり、ニヤニヤが止まらない。

TALK ABOUT…CURE

KOICHIRO

Motherのカップリング曲。歌詞のテーマは「HIV」です。ってストレートに書くと非常に重いテーマなので、100枚くらいのオブラートに包んで書きました。この詞も今の時代に合ってる内容じゃないかな?相変わらずレコーディング中に書いてたけど。
「この曲のマニュピレートは秀逸だな~」とリマスタリング音源を聞いた最初の感想。実はこれがマニュピレーター横山君との最後のお仕事になった曲だ。それにしても少ない機材(JD800とS1100)良く作ったと思う。当時、横山君とは音楽的なバックボーンが近く「いつか一緒にユニットでもやりたいね」なんて話していた記憶がある。
この時のスタジオは露天の温泉があって、みんなで入って、朝入って、歌詞に煮詰まって入って、温泉にいた時間が一番長かったかも知れないw


MIYO-KEN

レコーディング初日はシーケンスデータ、音色の整理に費やしたと思う。
「moter」「cure」ともドラムを録る予定はなかったので、この作業が今回のレコーディングのキモになる作業だ。

2日目にギター、ベース録ったのかな。わりとサクサク進行した気がするがどうだったんだろう?
当時からなんだけど、俺、ギター弾くよりベース弾く方が好きなのw
話それるけど、ライブに向けてのリアレンジでもベースに力いれてたり。
ライブで弾くわけじゃないんだけど。。

さておき、例のごとくミックスに入ると時間ができるので、確かメンバーで城ヶ崎海岸へ観光に行ったような気がする。吊り橋渡った記憶があるけど、どうだろ?
みんな覚えてるのかな?

1週間程度の滞在で2曲完パケ。


OKAZAKI

イントロのシンセはJD-800、そう!イントロで耳をすませて欲しい、リズムが入る直前でドラムスティックのカウントが「カッ!カッ!」と2つ入る。
Last temp~と同様シンバルのみ生で録音している。
この曲で楽しんでいるのはスネアのリリース音である「ターン♫」という音が通常であるがコレを短くしたり長くしたりをしている。
曲の最初から最後までを通してリアルタイムでシーケンサーに打ち込んでいく。ハイハットはコレも左右別の打ち込み。この頃はLondonで仕入れたサンプルネタを多用していた。
あ、ベースは生。間奏にスクラッチが出てくるが、コレはフィルターをリアルタイムで掛けながらレコーディングした記憶。


DJ PEAH

Single曲motherのB side MPC60でドラム作成 あえて本機PADにドラム音源を入れないでAKAIS1100から鍵盤で叩きリアルタイムでレコードした。この音はD.okazakiが実際に叩いたスネアアタックだと思う。リリースをクオンタイズしてない。そのほうが荒々しさがあると感じたからだ。間奏のノイズはベイビースクラッチしながらBASSファズフィルターをかけてノブを回しています。曲始まりのドラムスティック生音のクリックに注目。 マニュピレーター横山氏との思い出は、同じ部屋に泊まって部屋のベットでバック宙合戦をしたことですが、未だになぜあんなにムキになってしたのかがよくわかりません。

TALK ABOUT…MOTHER

KOICHIRO

そして第二章の始まり。新たな決意表明にしたかった事もあり直球勝負にでた。曲作りからレコーディングに至るまで一番みんなで話し合って作った曲だと思う。その分反動も大きかったのか?狙いすぎた曲だとみんな感じていた。サードアルバムにイントロしか入っていないのは、他の曲とのバランスが取れないって理由だったかな?
で今回リマスタリングした音を聞いた感想「全然いいじゃん」全員一致の回答だったw
そしてこの時期よりマニュピレートも自分達でっていう流れに自然と行き着いた。Motherのお陰でみんなとの結束がより強固になったように思う。
この曲は今の僕達への大切な贈り物となって響いている。

MIDIsequence AKAI MPC3000
sampler AKAI S1100
synthesizer Roland JD800
少なw


MIYO-KEN

そして全てを吹っ切って新体制での初曲。

これもブックレットに書いたけど、かなりJ-POP(当時はこんな言葉もなかった)よりに作ったのは確かだけど、もともとバンドの資質としてこういったタイプの曲が書ける才はあったんだし、今聴くとなかなか良い曲だと思う。
Twitterで先日行ったアンケートでもこの曲好き!って方多かったしね。
歌詞も今の俺らに言ってんの?的に変にリンクしちゃった感もあるしさw

伊豆にあったサウンドスカイ川奈スタジオでレコーディング、ミックスもここでやったと思う。スタジオに宿泊施設があって個人部屋だったけど、窓もなくてちと大きめなウォークインクローゼットの様な部屋だったかも、、
売れたバンドの方々はこの部屋が嫌で近くのホテルに部屋取ったとか取らないとかw

併設して露天風呂もあったし、ご飯も美味しかった。
何よりスタジオの音が良かった!

この時のエンジニアも比留間さん、そしてスタジオを管理していたのが小西さん。後の日本のロックシーンには欠かせない、レジェンドエンジニアのお二人です。

この曲で「笑っていいとも」の裏番組、もしかして関東圏だけの放送だったのかな?テレ東の番組で視聴者の投票によって勝ち抜きが決まる、秋本奈緒美さん、評論家の富沢一誠さんが司会の番組に出演した。確か2週は出演したと思う。

90年代終わりにエブリリトルシング(カタカナでごめん)で一世を風靡した、持田香がアイドルグループ「黒豚シスターズ』の一員として俺らと一緒に出演していた。
いやいや読めないよね、数年後に国民的(勿論美空ひばりとはランク別次元)歌手になるなんてw

1週目に出演した時のゲストが大物演歌歌手のAJさん。
ロンドンブーツ真っ青のシークレットブーツをお履きになり、1センチは浮いてるであろう〇〇を被っておられました。

そんな大御所に聞くなよ~、秋本奈緒美~、「M-AGEの音楽はいかがですか??」って。。
愚問だよ~w

2週目のゲストは世界に名を馳せる天才ギタリスト、渡辺香津美さんでした。
俺、中学生の時に日立市民会館にライブ見に行ってるし。ちょっと緊張したw

てかそんな天才に聞くなよ~、秋本奈緒美~、空気読めよ~
「こういったノイズギターは如何ですかって??」そりゃないだろうよ、脇汗やばいよ~
そこで渡辺香津美さんが一言、「僕ノイズっぽいの好きですよ!」と、笑顔で!

救われました!今でもその瞬間は鮮明に覚えております。
ありがとうございました!!!!


OKAZAKI

ご存知の通りKAJIWARAが脱退してから初めての曲。気負いなく、だけど初期のM-AGEを思い起こせる曲を作りたかった。確かペーちゃんのAKAI MPCで制作していった記憶。
イントロの16 分音符のシンセはRoland JD-800でステップで打ち込んだ。そうステップシーケンスって曲を走らせてレコーディングするのではなくシンセの鍵盤 を弾くと次の音符に進んでいく打ち込み方だ。これの良いところは偶然性でかっこいいものを作りたいときにはもってこいの手法なのである。ベースがいないことを意識してフレーズを打ち込んだ記憶がある。生っぽいけど生っぽくないけどカラオケにあるような感じにならないようにとフレーズと音色にとても時間を掛けた記憶。なにせメインベースのラインを考えるのが初めてだったもんでw
4人で再出発って意味でCall Meのような曲をこの時の4人で作りたかったのかなぁ…。だからリズムが近しい。違いは最初の頃と違ってサンプラー使いに慣れてきたのでリズムループの使い方が上手くなっているところだろうか。


DJ PEAH

B.kajiwaraが脱退してからのM age。なぜかPVを見ると皆元気がいい。これは気持ち的にふんどし締めなおして頑張ろうという現れだったのだろう。サードアルバム収録されているのはイントロでブラックホールにのみ込まれてしまったかのように終わるという。

TALK ABOUT…NEXUS 7

KOICHIRO

ネクサスとは映画ブレードランナーに出てくるレプリカント(アンドロイド)の名前、映画でのレプリカントはネクサス6型、これはM-AGEなりのネクストという意味で7になった。
そもそも僕はこの手のインストは好きな方だと思うし、実際良く出来たと思っているんだけど、この頃の記憶が非常に薄い。ロンドンレコーディングを経て、多少アーティストとして自覚しだした頃でもあったので、やはりジュリアナ東京は嫌だったんだろう。
今にして思えば大した問題じゃないって思えるけど、当時は若かったしね;
この前後、事務所の社長に打ち合わせと称してジュリアナ東京に連れて行かれた記憶がある。しかもVIP席とか恥ずかしいwその光景がロンドンのクラブで見た景色とは余りにも違い、当時まだまだ成熟していない日本のクラブカルチャー、いやあれはディスコ?に愕然としたのを思い出す。

そしてKAJIWARA YUJIが脱退した。
永遠に続くと思っていた関係が音を立てて崩れていく瞬間だったと思う・・・
でも不思議と「解散」って言葉は誰の口からも出なかった。ここでM-AGEの第一章が幕を閉じた。


MIYO-KEN

これ作ってる時はいろいろ悩んでたなあ。。
メンバーみんなそうだったと思う。

作品は悪くないし、いやむしろかっこいいだろ!

今だったら大いに笑い飛ばせるんだけど、えっ、ジョンロビ(決して悪い意味ではないよ。今は言い切れる)??
えっ、ジュリアナ??ボディコン(好きだけど)??

若さ故のナーバス感というか、、セールスが落ち込んできてのプレッシャーとか、大人の言うことは聞くべきか?w
とか。。

なんでも飲み込んでやろうぜ!的なスローガンがあったはずなのに、アーティスティックな自我が強くなってきたのも事実だった。

そしてkajiwaraの脱退。

俺らもけっこうキツかったよな。
これ読んでくれてるファンの方々もそうだったと思う。
俺とkajiwaraがやってたバンドとkoichiroとokazakiがやってたM-AGEが合体して、そこにpeahが加わって体制が整った訳だしね。

この時のROJの記事には正直ムカついたけどw
「こら、鹿野、なんでも書きゃ良いってもんじゃね ーよ!」ってまじ思った。
今は全然へっちゃらだからなんでも言えるw。

そんなこんなで一度立ち止まる事になったわけです(吉村談)


OKAZAKI

どうしようか?ってところから始まった。何故ならば企画はあったが構想もイメージも誰1 人としてなかった記憶がある。池尻大橋のスタジオだった。横ちゃんとメンバーがスタジオでゼロからスタート。テンポは?キーは?CDを聴きまくりサンプリング出来そうだと思ったら片っ端からしていく。いくつか揃うと時間軸に並べていく…するとどうだろう「コレは!?」となる瞬間が出来上がっている。メンバーはその瞬間を見逃すことなく広げていく。形になりそうな断片をまた広げる。広げたパーツに足りない音源を追加していく。
サンプラーを使い始めて間もない頃、同じ音源を同時に鳴らすとフェイズがかかるってなった。コレは自宅で偶然起こった。使い勝手がわからずバグった?って思った。その時である「アレレ?コレは面白い!使える!」って思っていたので早速この曲のイントロで試みた。ピタリとはまった^ ^(心の中でガッツポーズをした)リズムはたたみ込むように激しくしたかったが所謂一般的なフレーズではつまらないと思っていたのでスネアのアクセントになる場所を変えてハメていった。バスドラムはTR-909を歪ませた。(当時ジャーマンテクノだったか忘れたが、高速で歪んだ4分打ちのバスドラムが流行っていた)間奏のスネアパターンはKAJIWARAに頼んだ。案の定最高のスネアパターンを打ち込んでくれた。ベースは横ちゃんのmini moog。
この曲の面白いところは後半になればなるほど激しくなるのに涼しげなアルペジオギターが入ってくるところだろうか。Cool!である。


DJ PEAH

当時ディスコ、クラブなど一線あった垣根も緩和したころに、ジュリアナ東京、
velfarreといった大型のクラブスペースが主流になってきた。そしてそのメインDJをしていたジョン・ロビンソンとのコラボレーション( Remix )話がありNEXUS 7は生まれた。作成も即興、スタジオにこもりました。あともう一曲LIVE用に変な曲を作りましたがデータ記録はもうありません。残念…。
また晴海見本市会場でジュリアナ東京の盛大イベントを行った。この頃ベルギーなどで活動していた2 unlimitedらと共にLIVEを行う。あの時は100人以上のボディコンがお立ち台で踊ってすごい光景。LIVE終了後は控室に直行しそのまま帰宅。もっと楽しみたかったなー。

TALK ABOUT…SINK (2010MIX)

KOICHIRO

原曲はロンドンで、「vibES」のレコーディング時、最後に歌ったと思う。
この曲ではエンジニアのスチュワートとユウジと色々なアイデアを試していた記憶がある。歌入れの時に様々なノイズ音が鳴っていて、歌いにくかったけど、原曲のmixは、非常に感動したのを覚えている。
ユウジが書いたこの詞は重かったけど、このmixには非常合っていると思う。Mix時、僕はほとんどスタジオに足を運ぶ事ができず、途中経過を聞きに寄っただけだったと記憶しているが何でそんなに忙しかったんだろう?そして当時、未来を表す意味で2010 mixと名付けた筈が、時は既に2021 年になってしまった。


MIYO-KEN

この盤に収録されてるのはD2Nバージョンだけど、オリジナルは2nd『VibES』に収録。

ミックスは3ヶ所で行われた。EDEN、SWANYARD、そして翌年のレコーディングでメインスタジオとなる、キルバーンにあったMASTER ROCK STUDIOだ。
エンジニアの個性爆発なミックスがどんどん仕上がっていった。
前途の「真夜中の逃亡者」もそうだが、『VibES』にはバージョン違いが数曲ある。
本当に良い経験をさせてもらったと思っている。

ミックス中はいろんなライブを見にいった。
日本ではありえない金額でだ。ライブのスタートも21時だったり、夕食をゆっくりとった後にさあ、ライブ見に行くか的なスケジュール感が羨ましかった。
決して何方が良い悪いじゃないけど、文化の違いを感じたのは確か。

シープ・オン・ドラッグス、ヤングゴッズ、ミートビートマニフェスト(カタカナでごめん)、日本じゃ絶対見られないであろう対バンw
何より驚いたのは出音の良さと、照明。
失礼な言い方だけど、(勿論現在はそんな事はないのだが)当時の日本の技術はそれと比べたら小学生レベルだったと思う。
それくらいの衝撃を受けた。。もう圧倒的だった!!

帰国の際、ヒースロー空港で一悶着あった。
係員がマルチテープとマスターテープをX線に通せと言うのだ!
中身消えたら泣くぞとか、全額弁償だとか、俺の命だとか、いくら説明してもダメの一点張り(あたりまえだが、、)。
実際なんの問題もなかったんだけどさw
磁気テープだから、やっぱり怖いでしょ、めちゃ苦労して作りあげたんだし、もしもの事があったら。

帰りの便はあまり混んでなかったと思う。シート一列丸々使って横になってたような。。
行きに比べて覚えてる事が圧倒的に少ない。
無事に作り終えた事の安堵感と、たまった疲れがピークだったのだろう。

もしかしたらこれまで生きてきた中で、一番濃密な40日だったのかもしれない。


OKAZAKI

Remixの作業工程を見ることが出来た唯一の曲。当時はPCではなくRolandのHDレコーダーだった気がする。エンジニアさんが持ってきていた気がする。
所謂マルチテープからレコーダーに取り込んで各パートの音をコラージュしていくのだ♫これは楽しいと感じた。プラスそこにシンセやリズムを新しく入れたりオリジナルトラックのサウンドを追加していくのだが、このmixはとてもシンプルに聞こえる。マジックだ、それを横で見ることが出来てとても嬉しかった記憶。


DJ PEAH

原曲では民族音楽のサンプルが楽曲にベストマッチして盛り上がった思い出。サンプリングとはいえ当時では見つけるのも一苦労。現代ようなネタの多さではない。B.kajiwaraの思いのこもった曲です。

TALK ABOUT…WALK ON THE MOON (DEMO)

KOICHIRO

1時間、何十万ってするビクターの401スタジオでの、初レコーディングとなった。聞いて貰えれば分かる通り、最初の段階だと4Pのバンドサウンド寄り 。音的には、まだまだ発展途上だけど勢いだけはある。実質このDEMOのお陰でデビューにこぎ着けたのは言うまでもない。
この頃は事務所とレコード会社の話がかみ合ってなくて、大人の事情を垣間見た瞬間でもあった。DJ上がりでお洒落な事務所の社長とサングラスに無精髭、ビクターのディレクターだった田中さん、どちらも胡散臭さは五分だったw

かっちゃんへのコメ返
え?あのOberheimってスチュワートのだったの!?しかもフランキー!?今の今まで知らなかった;みんなの解説つなぎ合わせると色々と謎が解けてくるwミヨケンの話を含めwww


MIYO-KEN

話は前後するけど、デビューが決まりかけてダメ押しで社内プレゼン用にデモを録る事になった。

通常はメーカーの方々がライブを見て「オッケー!契約しよう。」とか「ん~、いまいち」とか判断するものだが、俺らの場合はかなり特殊なだった。ブックレットでも書いているが、いち無名バンドではそれを再現する資金、機材、そして時間も圧倒的に無かった。

説明したところでディレクターの田中さん以外は、皆???の連続で知らない言語空間に放り出された感覚だったと思う。30年前だしw

そんな中、社内のお偉いさん、制作、宣伝、営業みんな引括めて
「どうよ、これ?やばくね??」的なムードを社内に充満させようとの意図もあったはずw。
勿論、音源がなきゃ契約も出来なかったんだけどね。

結果、功を奏し順風満帆に見える船出をしたわけだが、、
世の中そう甘くはなかった。。。


OKAZAKI

Call Meのレコーディングからすぐにメジャーデビューへ向けてプレゼンの為に行われた。ビクタースタジオの開かずの間で有名な一番大きなスタジオで(偶然空いていた)行われた。
AKAI S-1100はその時のエンジニアさんの所有物だったが使わせて頂いた。「なんて機材なんだ!」って思った。これならなんでも出来ると全員が思った。
生ドラム。一生懸命に叩いているww。Koichiroの歌に勢いがあって好きだ。横ちゃんフル稼働。


DJ PEAH

このDEMOが残っていたのが奇跡。皆これを聴いたときニヤニヤしていた。

TALK ABOUT…FLOWERS OF THE SUN

KOICHIRO

Paehの曲らしく踊れるダンスチューンに仕上がっているが、どこか壊れた感じがM-AGEらしい。フラットにミヨケン所有の4TRカセットMTRとQR10っていう小さなオールインワンシンセみたいなものを持ち込んでデモ作って、すぐレコーディング。仕上がりが全く想像できなかった。
当時アシスタントエンジニアだったベン(大好きなDepeche modeなどのプロデュー サー)の友人であるジムと何度かクラブに遊びにいった。ロンドンのクラブカルチャーに触れられた事には大きな意味があったし同時に〇〇に関しても垣間見る事ができた。その体験(詳しくは書けませんが)とロンドン郊外の景色をオーバーラップさせたものが歌詞のモチーフとなって、この歌詞に生きている。


MIYO-KEN

これもブックレットに書いたけど、渡英しても収録予定曲数のデモ曲が5~6曲あるだけだった。前途の観音崎でのレコーディングが終わると、すぐにsomeday~に伴う全国一斉キャンペーン、東名阪ライブツアーのリハーサルとなかなかの過密スケジュールだった(嬉しいかぎりだが)
そんな中で頑張って作った5~6曲だったと思う。

ロンドンではチズウィックにある由緒あるスタジオ、EDENスタジオでレコーディングを行った。スタジオ前の道路を挟んで真前に俺らが滞在するフラットがあり、スタジオ、フラットと二手に別れ、かたやレコーディング、かたや作曲と、前者後者メンバーを入れ替えながら当初の2週間はあっという間に過ぎていった。

思いつくアイデアは手当たり次第にテープにぶち込んでいった。
確かアナログ24chをスレーブして48chにしてやったのかな。
紆余曲折を経て何とかミックスまでこぎつけた。

ミックスが聴けるのは早くても20時以降なので、その時間を利用して撮影したり。このへんはDVDに収録されてるよね。収録されてる時間はほんのちょっとだけど、本来はロンドンの映像だけで2時間半はゆうに超える長編巨作ものだった。
使えないカットが多過ぎて(各シーンでメンバーの誰かが我慢すれば良いのだがw)全部見せられないのは残念だ。
その前に飽きるか、そんな長いの。


OKAZAKI

ペーちゃんが初めてM-AGEに書いた曲ではなかっただろうか。ハッピーな曲でとっても彼らしい曲である。この曲もリズムは今までDJで培ってきたグルーヴを出してくれると思いペーちゃんにお願いした。スネアで16分音符のフィルがあるが、良く聴くと音階が変わる。これは彼のアイディアである。素敵♫


DJ PEAH

初の自身の曲、MTRを皆に聴かせた思い出。トラックにメロディー乗せて作りました。とにかくパーカッシブな曲のアレンジでイメージしていました。ただそれだけだと物足りない。そこはmiyokenのギターがアグレッシブさをだしてくれました。いやーバンドってホントにいいものですね!

TALK ABOUT…HEAVEN

KOICHIRO

フラットでミヨケンとデモを作ってる段階からアレンジの方向性は固まっていたので仕上がりが想像できた曲。(この頃は相当珍しい)
忙しかったけど、見るもの、聞くもの全てが美しく夢のような時間。それと同時にIRAのテロなど日本にいると想像できない負の側面も垣間見る事ができた。歌詞は「救い」や「救済」がテーマ、ロンドンでの出来事が歌詞になっている。

Twitter のアンケートで、この歌詞をいいと言って下さる方がいて、素直に嬉しかったです。
余談だけど、ミヨケンがアルバムで多様してたワーミーペダルを電圧変換せずそのままコンセントに差し込んで壊したのを覚えている。2台持っていって良かったねw

Computer apple Macintosh SE30
MIDI sequence VISION
sampler AKAI S1100,MPC3000
synthesizer Roland JD-800,JUNO-106, MOOG MIDI-MINI ,Oberheim Xpander
スタジオにJUNO とOberheimがあって勝手に使ってた気がするけど、圧倒的に出番が多かったのはJUNO-106だ。


MIYO-KEN

ロンドン・ヒースロー空港に到着すると、滞在期間中ずっとお世話になるコーディネーターさんが出迎えてくれた(M-AGE御一行様的なものは無かったw)。

バンに乗り込み運転手のお兄さんに軽くご挨拶。

メンバー、スタッフ共に長旅の疲れもどこ吹く風で、日本とは全く違う気候に多少戸惑いながらも窓を少しだけ開けてて、英国の匂いをおもいっきり吸い込んだ。

これから起こるであろう様々な出来事に想いを馳せながら、バンはロンドン市街地に向けて颯爽と走り出した。
車窓に流れる風景を見ながら、改めて、俺らが愛して止まない音楽が生まれたこの地でM-AGEのレコードを作る事実に、メンバー其々が嬉しさを噛み締めていたと思う。
初の海外レコーディングは順調な滑り出しを見せたのであった(気分的にはね)


OKAZAKI

Koichiroの曲、バスドラムはTR-909のサンプリング。スネアは3種類位の音源を合わせた。ハイハットは同じ音色を2パターン作って左右に振り分けてるのが当時のちょっとした優越感だった。
イントロ途中から出てくる小音量で鳴っているスネアはTR-606のサンプリング。
この頃からリズム(グルーヴ)の作り方が多色々な音色を多重に使用することを意識していた記憶。
この時のレコーディングのエンジニアさんが自前のシンセをスタジオに持って来てくれてこれ使ってみる?って言ってくれていた。スゲー良い音が沢山メモリーされていた。その中の音色の一つをオレたちに聞かせて彼が言った「この音色はフランキーゴーストゥーハリウッドが使った音だよ♫」…。。。「うぉ~~!!」ってなったww。モチロンそこに横ちゃんも居た^_^ニコニコだった。


DJ PEAH

乾いたスネアから入る!それは頭になかった。誰が考えたんだっけ? D.okazaki さんですかね。
うろ覚え。
Aメロはとても明るくメロディアスでサビで一転神秘的な展開になる。この曲は好きな人多いと思う。全体的に各パートがベストマッチしています。乾いたスネアにエレクトロなドラムマシンのフィルが入ってくるリズムにも注目。