TALK ABOUT

TALK ABOUT…PERSONAL ASCENSION

KOICHIRO

これもお気に入りの曲。サイケな要素とメロが秀逸。歌入れの時に声が聞こえたのはこの曲だったと思う。イントロが終わって、歌い始める所で、高い女性の声が聴こえて「なに?」って?でもそれは不思議と怖い感じはしなくて、むしろ歓迎されてる感じがした。
タイトルは「昇天」。というと死を連想するワードだけど「更なる高みを目指そう」という非常に前向きな歌詞です。

ロンドンも2回目となると、みんな慣れたもので空き時間は、好きな所に出かけていたんじゃないかな?僕も1人テムズ川のほとりで黄昏ていた記憶があるw

そして後半はクラブにも何度か遊びに行った。前年に行った洞窟の入り口のようなEBM推しのクラブは違う店になったように廃れていたり、古い劇場を改築したクラブではハードフロアのようなアシッド系の曲が流れていて、客はみんな一心不乱に踊っていたのが印象的だった。その中で見つけたかっちゃんは妙に馴染んでいたw

MIDIsequence ATARI(機種は覚えてない)
Cubaseの組合せ。日本で使ってる人見たことなかったけど、ロンドンでは多かったみたい。
sampler AKAI S1100
synthesize Roland JD-800 JUNO-6か60
ベース音はサンプルで鳴らすのが多かったけど、音が細いのでJUNOやJDなんかをレイヤーして鳴らしている。


MIYO-KEN

この曲のレコーディング中に起こった事はブックレット通り。

日本のスタジオでもこのての話はよく耳にしていたのだが、例えばこんな話とか。
『トイレのドア閉めて座ったら、ドアから浮き出てきた目にガン見された』とか
『ブースでレコーディング中、コントロールルームが騒がしいので「何??」って聞いたら「ブースの前にお坊さんが立ってる、、」って返事で慌ててブースから出ようとしたらロックされててドアが開かない!!』とか。。

まさか自分が体験するとは思ってもみなかった。。
不思議な事に怖さはあんまり感じなかった。なになに???ってのはあったけど。

ミックスはこのスタジオで全曲マイク・スパイク・ドレイクによるもの。
マスタリングはTOWN HOUSEにて。
『VibES』は日本でマスタリングしたのだが、いろいろと反省点もあったので
今回は全てロンドンで。

ライブも沢山見た。これもまた日本ではありえない対バン。。しかも安い!!
ジェームスがトップでライブスタート、次いでスワーブドライバー、ヴァーブ、
トリでワンダースタッフ。。(カタカナでごめん)
圧倒的にヴァーブが良かった!!もうアタマ3つ抜けてた!!

PWEIも素晴らしかった!!

前回同様、美味しいものも沢山食べた。
俺の中で断トツ1位はなんといってもインド料理だ。
高級店から食べ放題のお店まで。。(多分制作費の中に食事代も含まれていたと思う汗)

確か最初のロンドン時だったと思う。
デビッドボウイも来店したことがあるという、高級インド料理店での話。
インドビールで喉を潤しながら前菜をつまみ、そろそろワインに行こうかという流れになり赤ワインを頼んだ。さすがは高級店、テイスティングもあったり。
噂には聞いていたが、タンドール料理からナンに至るまで日本のそれとは見た目(ここでは大きさ)も味も全く別次元だった。
個人的には「こんな美味いものが世の中にあるのか??!!」と思ったくらい。
いやいや、けっして大袈裟な話じゃなくてさ。

帰国してからは、あそこの店が美味しいよなんて噂を聞くと、迷わず食べに行ったものだ。
最近は年齢と共に好みも食べる量も随分と変わったので、めっきり食べ歩く事は減ったのだが。

話を92年に戻しますw
カレーも、肉、魚、野菜と何種類かオーダーしたと思う。
合言葉はベリーホット!!
調子に乗った我々は「一番辛いのください!!」と。。
ボーイさんは「日本の方々には無理だと思いますよ」と。。
実際無理だったと思う、、なぜなら2番目に辛いカレーで悶絶していたのだからw

今、冷静に考えるとメチャ喉に悪いよね、、
「koichiro、ゴメン!!」
今更だけど謝ります、メンバー、スタッフ代表して。。

無理やりまとめるが、今回も様々な思い出を胸に刻み、そして帰国の時を迎えた。


OKAZAKI

限定版のブックレットでMIYO-KENが触れている話はホントですw

完全生ドラム。「ドラム叩けますよ!」アピール曲(笑)特にエンディングは全開に「チョーシこんでる」(茨城弁)
これもミヨ節。良い♫シンプルなシンセベースにギターと生ドラムのアンサンブルがたまらない。女性コーラスはスタジオに居たアシスタントの方だったと思う。
ある日スタジオの廊下で彼女とすれ違った際鼻歌を歌っていた。素敵だった。すぐさまディレクターさんに伝えたところ即採用!この様な出来事がロンドンでは良くあった。
アルバム『vibES』で「月の微笑み」と言う曲も「KISS♫」というヴォイスが入っているがソレもアシスタントエンジニアだったベン・ヒラー(現在ではデペッシュモードのプロデュースエンジニア)だ。


DJ PEAH

このリズムはスクラッチするときもフィットするんだよね。今後定着しそうなリズムです。シンセだけ日本で作ってLONDONで生楽器録音予定。そこで全体像がわかるのであるが、サードアルバムでは、現地の空港X線でJD800の音源保存カード飛ぶというアクシデントに見舞われた。よってすべて向こうで制作することになる。
サードアルバムLONDONの思い出は、MAD CAPSULE MARKETSさんらと同じスタジオで意気投合、ビリヤードしたりクラブにも行った。Vo.KYONOさんからおすすめのクラブない?と聞かれて、当時ハードコアテクノで有名だったクラブノリッジへ一緒に行きました。狂うように盛り上がり汗をかいたのを思い出します。この時はうちのメンバー私だけでした。

TALK ABOUT…OCEAN RAIN

KOICHIRO

ロンドンに着いたその日は、空港からそのままmaster Rock studioに!スタジオに入ると広いロビーで革ジャンを着た素敵なチョイ悪オヤジがビリヤードに興じていた。よく見るとブライアン・フェリーではないか!数秒フリーズし握手して貰ったのかすら覚えてないくらい緊張しましたw
握手して貰ったよね?それとも思い出補正?


MIYO-KEN

2度目のロンドンということもあり、地下鉄やバスの乗り方、買い物の仕方など随分と慣れたもので、メンバー其々がレコードショップ、パブと自由気ままに行動していた。

レコーディングの方は、昼過ぎに始まり、夜の9時、10時くらい、作業のきりの良いところで終わらせていた。

このMASTER ROCK STUDIOは英国のトップアーティストにも使用されており、同時期にレコーディングしてたのかどうか定かではないが、ロビーでブライアン・フェリーがビリヤード(スタジオはビリヤード台が多い、何故?)してたり、シンプリーレッドのミック・ハックネルがやってきたり、極東の若者にとって、すぐに状況が飲み込める程余裕がある精神状態では無かった事は言うまでもないだろう。

さらにこんな事もあった。

レコーディングも終わり、ミックスの作業に入った時の事だ。
例のごとくミックスチェックまで時間がたっぷりあるので、スタジオのロビーで雑談していたら日本のMTVなどで良く見かける背の高いナイスガイ(死語)が近づいてきた。
ん?、なんとスウェードのベーシスト、マット・オズマンではないか!!
「チューナーを貸してくれないか?」と申し訳なさそうに話しかけてきた。
勿論二つ返事でオッケーしたのだが(正確には三つ)、話を聞いてみると音楽家なら絶望的な気持ちになる内容だった。

「機材車ごと楽器が盗まれた、、何もかも。。」

その後楽器が戻ったかどうかはわからないが、日本でもこういった事件は後を絶たない。
「車は良いから楽器だけは返してくれ!」という言葉は、心の底から湧き上がる叫びです!


OKAZAKI

ミヨ節。大好きだ。「切ない」このキーワードの事を彼に任せたらこの世イチだと思う。
バスドラムはLINNドラムのサンプリング。スネアは数種類のミックス。シンセベースは…プロフェット5かJD-800。
この曲はシャッフルリズム(16分音符を「シャカシャカ」ではなくて「シャッカ
シャッカ」とリズムをとる)このリズムパターンはタイミングが合えばずっと打ち込みで演りたかった。
リズムの中で「チッキチッキ」という音色が出てくるが、これがリズムの核になればと思い打ち込んだ。確か音色はシェイカーのサンプリング。この手のパターンは匙加減が難しい。
ずっとなっているとやかましい。blind~で学んだ引き算の美学である。
逆に今現在、このテンポ感とシャッフルをDAWで再現すると精度が良すぎて、あのようなグルーヴを作るのは難しいのも時代を感じるものだ。


DJ PEAH

シャッフルが効いてます。M-age初の跳ねてるリズム、セッションしながらいけるんじゃないかってことで打ち込んだ記憶。リズム、シンセ、ベースまで作り、後はLONDON作成、ムーディな曲に仕上がっています。大好きな曲です。

TALK ABOUT…BLINK BLINK BLINK

KOICHIRO

INTERFACEは最初にして最後のコンセプトアルバム。「Intle escape point」曲のタイトルの太字を繋げるとこんな意味が隠されていて(隠してはいないかw)全員が同じ方向を向いて作った。
歌詞についても「Blind Venus」からの流れで「解放」というテーマをもとに書き下ろした。ユウジの脱退があり「Mother」「Blind Venus」2枚のシングルの経て到達した答えだったように思う。

さて2度目となるロンドンレコーディング、Peahが作ったこの曲は一番最後に歌ったかな!?コンセプトアルバムなので、歌詞にも統一感が必要と考え、全体的に「空」をイメージさせる歌詞になっている。当時の僕には歌詞に統一感を持たせるのは大変な作業だった。自分で課した事の重圧に押しつぶされそうになりながら書いていたが、そこはやはりバンド!みんなに救われながら書き終える事ができた。この歌詞に出てくる「燃え尽きていく星のように」文字通り歌入れ終了時には燃え尽きていた・・・orz


MIYO-KEN

93年夏の終わりに渡英。

前年に続き2度目なので、準備等の混乱は無かったように思う。
今回は収録曲も出揃っていて、満を侍してのフライト。
飛行機はJALだったので「Beef or Chicken ?」的なものはなく、「お肉、お魚何方にしますう?」的な聞き慣れたものだった。前回同様、機内ではタダという事につけこんで、ワイン、ウイスキー片っ端から浴びる様に飲んでいたと思うw
気圧の影響で酔いが回るのもめちゃ早い、、そうなったら寝れば良いだけなのだが。
タバコも吸えたし、おおらかな時代だっと改めて思ったり。

ヒースロー空港に着いて、コーディネーターさんのお出迎えを受けまっすぐスタジオに直行したのかな、あれフラットだったっけ?んー、思い出せない、、
その晩は親睦の意味も兼ねて、録りをお願いするリチャード・ノリス氏とコーディネーターさんと食事に出かけた。あれ?どうだったかな?ほんとに行った?俺、勝手に話作ってるかもw

宿泊はスタジオから徒歩圏内のフラットで共同生活。

場所はキルバーン、当時IRAによるテロ事件が多発してた地域。

翌日からはジェットラグと戦いながらも順調にレコーディングスタート。

無事に数曲分のシーケンスデータをテープに流し込んで初日は無事終了。


OKAZAKI

ペーちゃんの曲。やはり彼の曲はハッピーで良い。ベース音は忘れた。16分音符のシンセはJD-800。バスドラムはTR-909のサンプリングと違う音色のサンプリングをミックスしている。スネアはTR-909の音からさらに進化したくて試行錯誤していた頃なので色々な音色をミックスし過ぎてひとつひとつの音色の記憶がない。
ロンドンに行って思ったことだが電圧の違いで音が変わることを実感したことがある。それはシンセでの事だ、日本でプログラムしていると高音部などが強くて歪んでしまったりしていた音色が、ロンドンへ持って行くと全く歪まないのである。メモリーカードは当然日本でセーブしてソレを持って行き、ロンドンでレンタルしたJD-800に入れリコール。するとどうだろう全く歪みがないのである。ギターアンプでもその様な事をMIYO-KENは言っていた。


DJ PEAH

曲を作ったときはシンセピアノの音色だけでメロディのせて作った。曲が選ばれてからは、LIVEスタジオでセッションし、それぞれのパートでアレンジが始まり、土台ができてLONDONへ持っていった。サードアルバムは約二カ月のレコーディングで完成に至る。日本のLIVEスタジオでよく食べた、お肉屋さんの弁当(カレー)の味が忘れられない。

TALK ABOUT…STRANGE FUTURE

KOICHIRO

「Blind Venus」のカップリングとして作った曲。nexus7の反動か!?曲の良し悪しではなく精神的な意味で解放されたかったのだろう。
そもそもインストは当時の自分達が聞いていた音楽を反映できる曲として作っていたと思う。メロディーのない曲っていうのも面白かった。
サビの「PEACE OF MIND」っていうワードは早い段顔で出来上がっていて他の部分はみんなでパズル的に作っていったと思う。


MIYO-KEN

「Blind Venus」とともに藤沢にあったイニックスタジオでレコーデイング。

スタジオまではokazakiが運転して行ったと思う。
第三京浜から横浜新道を経て藤沢へ、初夏の良い天気だったのを覚えている。

ここも宿泊施設を兼ねたレコーディングスタジオ。
音もさる事ながら、ここは賄いのご飯がめちゃくちゃ美味いとの評判だった。
いや、実際は評判以上の美味しさだったと思う。
それはもう朝ごはん(正確にはお昼、ブランチというワードもなかったと思う)からこっちもフルポテンシャルで対応しなきゃ失礼なくらいに。
とにかくご飯が楽しみだったw

スタジオのロビーはとても広く、さながら高級住宅のリビングのようだった。
その一角にキッチンがあり板長が腕を奮い(シェフというより板長のほうがピンとくる)、大きな2つのダイニングテーブル、それこそ8人は座れるであろうコーナーソファー、大画面のTV、標準サイズのビリヤード台が鎮座しまるで自分が成功者の様な錯覚を覚えるくらいだった。

そんなソファーでアルバムの方向性やらライブの事を話あったりした。
ん、したんだろう。したよね? したんじゃない??(関白宣言風、若い人は知らないw)

滞在期間は1週間くらいだったと思う。

来るべき渡英に備え闘志を燃やした、93年夏の日であった。


OKAZAKI

この曲は前半Koichiroの歌にメロらしいものがない。コレもやりたかったことのひとつだ。で、サビで弾ける感じにしたかった。Mix時に間奏の「Ah~!」のヴォイスネタの後に「フア’’ー」ってなるシンセノイズがあるが、その音がもっと聞きたくてエンジニアさんに無理を言って音量を上げてもらった。なので面白いことにノイズの音が出るとオケの音が思いっきり後ろに下がる。今は主流になっているバスドラムがなるとオケがその都度、後ろに下がる手法を知らずにしていたのか?いやいやそんな訳ない。笑


DJ PEAH

Single Blind Venus B side。レコーディング入る前に大体こんな曲にしたいねみたいな雰囲気はあった。ネタとシンセ音色作りを事前に組んでおき、スタジオ録音時にトントン拍子で仕上げていった。LIVEやったことあったかな?リハーサルのみ?覚えてない。。。この曲で私RAPやってます。

TALK ABOUT…BLIND VENUS (RELEASE MIX)

KOICHIRO

渡英前に日本でレコーディング。3rdアルバム前は少し余裕があった時期だと思う。シングル候補を何曲か作った僕とミヨケンの2曲をミックスして出来上がった。Motherとはうって変わって、自分たちのポピュラリティーを全て注ぎ込み、気負いなく作った曲。当時の自分達が目指していた到達点だったように思う。しかもS1100とJD800だけでよく作ったと過去の自分たちを褒め称えたい!!
歌詞については「解放」というテーマがあって、これは後のアルバムに繋がっていくワードになっている。残念な事にレコーディング時の面白エピソードは、ほとんど覚えていない。


MIYO-KEN

このシングルというか、3枚目のアルバムの曲作りのために伊豆のキティースタジオで、どのくらいの期間だったかは忘れたけどが合宿したんだった。
ここは賄いがなかったので、合宿初日はokazakiがカレーを作ったのだと思う。
彼はデビュー前からカレーを作ると「カレー作ったからおいでよ!」とよく電話をくれたw
骨付きのチキンカレーが定番で、これがまた美味しくてさ、よくご馳走になったな。

そんなカレーをスタッフ含めて(何人いたかは定かでない)頬張り、翌日から始まる曲作りに向け鋭気を養った!!

ここのスタジオにも宿泊施設があり、温泉もあった。
合宿の最終日には打上と称し、レコード会社からも何人か集まってくれた。
事務所スタッフも合わせると、10数名いたと思う。
この人数でトランプの大貧民をやったのは後にも先にもこれが最後w
マネージャーだった稲葉さんが起こしためちゃ笑える事件もあったな。。
さすがに内容は書けないw

スタジオ作業はほぼ覚えてないけど、こっちの記憶は鮮明だ。


OKAZAKI

いつ聴いてもグッときます。色々な想いが詰まった曲になってしまいました。この曲の凄いところはベースというパートはハイフレットのMIYO-KENのベースのみ。と言ってもギターもアコギがチャラーンと言っているだけなので実質このベース音もギターという位置付けとなって良い。低い音程のものがシンセ以外ないのだ。シンセといっても和音で全音符で出ているだけ。そう4人のアンサンブルで全て成り立っているのである。それまでは音楽というものは足し算で成り立っていると思い込んでいた。いや、引き算することってこんなに素晴らしく隙間ってこんなに楽しんで良いんだ♫


DJ PEAH

Singleになった曲です。アルバムバージョンと違うところはベースドラムがやさしいか重いかの違いがある。PV(MV)ではアルバムバージョンのやさしい方です。この曲は先日koichiro.Miyokenのインタビュー動画でも話しています。

TALK ABOUT…今夜はビート・イット!

KOICHIRO

カバーするなら、もっと違う選択肢もあったと思うけど、これを選ぶ辺りがM-AGEなんだと思う。
歌入れ時間が最短で30分位で終わった気がする。むしろコーラスの方が時間かかった。勢いという意味では、この頃も相当だった気がする。楽しかった記憶しかない。
タイトル表記日本語指定だしw
余談ですが、城ケ崎海岸行ったのは覚えてる!子供みたいに橋を揺らすミヨケンの姿をw


MIYO-KEN

プリプロを済ませ準備万端な状態でビクター山中湖スタジオへと向かう。
エンジニアはその後個人的に大変お世話になる新銅さん(こちらもレジェンド)。
この時が初仕事だったと記憶している。

合宿レコーディングの楽しみはなんと言っても食事だろう。
もちろん店屋物じゃないし、必ず宿泊施設に賄いを作ってくれる方がいらっしゃる。

ここのスタジオの難点をあげるとすれば、少し人里から離れた場所にあるためコンビニがなかった事だ。
その日のレコーディングが終わって小腹が空いても食べるものがなーい!!
おつまみ程度の渇き物と、お酒は沢山あったと思うw

延4日位滞在したのかな?
実は俺、、この時の事あんまり覚えてません。 。 。


OKAZAKI

今聴いても中々カッコいいじゃないですか~w
とにかくサンプリングしまくった記憶。またアイディア無くスタジオに入った記
憶。シンセはベースと16分音符で刻んでる音色だけだったかなぁ。イントロのシンセはそれっぽいサウンドを単音サンプリングしてフレーズで出している。TR909のライドシンバルが入っているがFront242を意識した。スクラッチにはディレイをかけて楽しんだ♫間奏のリズムループのところは今でも好きだ。そこに「ah~!」って出てくるサンプルは…そう、アレである。
とにかくメンバーは楽しんで制作しているのが今でも伝わってくる。SNS等で、聞いてくださった方々もコメントしてくれているが、自分も聴く度にタイムスリップする。

あ、この曲とは全然関係ないが「UNDER THE CUBIC SKY」のオリジナル曲のレコーディングだが、ドラムの録音方法をどうしても伝えたくて書かせて頂きます(笑)
アレは24chアナログテープレコーダーに録音したものを、1小節の長さ分のテープをハサミでバサリと切り、両方の切り端を繋ぎ合わせ、大きなレコーダー本体を2台並べてグルグル再生し、それをデジタル48chのテープに録音したものです。(はぁはぁ…汗)イッキに書いてしまった。とにかくこの手法は、凄い事だったと伝えたかったのです ♫


DJ PEAH

ベスト盤収録曲の中で一際目立っているかもしれない。本当に威勢がいい。この曲はレコーディングスタジオでほとんど作っています。久しぶりに聴いてメンバー自身もびっくり、ニヤニヤが止まらない。

TALK ABOUT…CURE

KOICHIRO

Motherのカップリング曲。歌詞のテーマは「HIV」です。ってストレートに書くと非常に重いテーマなので、100枚くらいのオブラートに包んで書きました。この詞も今の時代に合ってる内容じゃないかな?相変わらずレコーディング中に書いてたけど。
「この曲のマニュピレートは秀逸だな~」とリマスタリング音源を聞いた最初の感想。実はこれがマニュピレーター横山君との最後のお仕事になった曲だ。それにしても少ない機材(JD800とS1100)良く作ったと思う。当時、横山君とは音楽的なバックボーンが近く「いつか一緒にユニットでもやりたいね」なんて話していた記憶がある。
この時のスタジオは露天の温泉があって、みんなで入って、朝入って、歌詞に煮詰まって入って、温泉にいた時間が一番長かったかも知れないw


MIYO-KEN

レコーディング初日はシーケンスデータ、音色の整理に費やしたと思う。
「moter」「cure」ともドラムを録る予定はなかったので、この作業が今回のレコーディングのキモになる作業だ。

2日目にギター、ベース録ったのかな。わりとサクサク進行した気がするがどうだったんだろう?
当時からなんだけど、俺、ギター弾くよりベース弾く方が好きなのw
話それるけど、ライブに向けてのリアレンジでもベースに力いれてたり。
ライブで弾くわけじゃないんだけど。。

さておき、例のごとくミックスに入ると時間ができるので、確かメンバーで城ヶ崎海岸へ観光に行ったような気がする。吊り橋渡った記憶があるけど、どうだろ?
みんな覚えてるのかな?

1週間程度の滞在で2曲完パケ。


OKAZAKI

イントロのシンセはJD-800、そう!イントロで耳をすませて欲しい、リズムが入る直前でドラムスティックのカウントが「カッ!カッ!」と2つ入る。
Last temp~と同様シンバルのみ生で録音している。
この曲で楽しんでいるのはスネアのリリース音である「ターン♫」という音が通常であるがコレを短くしたり長くしたりをしている。
曲の最初から最後までを通してリアルタイムでシーケンサーに打ち込んでいく。ハイハットはコレも左右別の打ち込み。この頃はLondonで仕入れたサンプルネタを多用していた。
あ、ベースは生。間奏にスクラッチが出てくるが、コレはフィルターをリアルタイムで掛けながらレコーディングした記憶。


DJ PEAH

Single曲motherのB side MPC60でドラム作成 あえて本機PADにドラム音源を入れないでAKAIS1100から鍵盤で叩きリアルタイムでレコードした。この音はD.okazakiが実際に叩いたスネアアタックだと思う。リリースをクオンタイズしてない。そのほうが荒々しさがあると感じたからだ。間奏のノイズはベイビースクラッチしながらBASSファズフィルターをかけてノブを回しています。曲始まりのドラムスティック生音のクリックに注目。 マニュピレーター横山氏との思い出は、同じ部屋に泊まって部屋のベットでバック宙合戦をしたことですが、未だになぜあんなにムキになってしたのかがよくわかりません。

TALK ABOUT…MOTHER

KOICHIRO

そして第二章の始まり。新たな決意表明にしたかった事もあり直球勝負にでた。曲作りからレコーディングに至るまで一番みんなで話し合って作った曲だと思う。その分反動も大きかったのか?狙いすぎた曲だとみんな感じていた。サードアルバムにイントロしか入っていないのは、他の曲とのバランスが取れないって理由だったかな?
で今回リマスタリングした音を聞いた感想「全然いいじゃん」全員一致の回答だったw
そしてこの時期よりマニュピレートも自分達でっていう流れに自然と行き着いた。Motherのお陰でみんなとの結束がより強固になったように思う。
この曲は今の僕達への大切な贈り物となって響いている。

MIDIsequence AKAI MPC3000
sampler AKAI S1100
synthesizer Roland JD800
少なw


MIYO-KEN

そして全てを吹っ切って新体制での初曲。

これもブックレットに書いたけど、かなりJ-POP(当時はこんな言葉もなかった)よりに作ったのは確かだけど、もともとバンドの資質としてこういったタイプの曲が書ける才はあったんだし、今聴くとなかなか良い曲だと思う。
Twitterで先日行ったアンケートでもこの曲好き!って方多かったしね。
歌詞も今の俺らに言ってんの?的に変にリンクしちゃった感もあるしさw

伊豆にあったサウンドスカイ川奈スタジオでレコーディング、ミックスもここでやったと思う。スタジオに宿泊施設があって個人部屋だったけど、窓もなくてちと大きめなウォークインクローゼットの様な部屋だったかも、、
売れたバンドの方々はこの部屋が嫌で近くのホテルに部屋取ったとか取らないとかw

併設して露天風呂もあったし、ご飯も美味しかった。
何よりスタジオの音が良かった!

この時のエンジニアも比留間さん、そしてスタジオを管理していたのが小西さん。後の日本のロックシーンには欠かせない、レジェンドエンジニアのお二人です。

この曲で「笑っていいとも」の裏番組、もしかして関東圏だけの放送だったのかな?テレ東の番組で視聴者の投票によって勝ち抜きが決まる、秋本奈緒美さん、評論家の富沢一誠さんが司会の番組に出演した。確か2週は出演したと思う。

90年代終わりにエブリリトルシング(カタカナでごめん)で一世を風靡した、持田香がアイドルグループ「黒豚シスターズ』の一員として俺らと一緒に出演していた。
いやいや読めないよね、数年後に国民的(勿論美空ひばりとはランク別次元)歌手になるなんてw

1週目に出演した時のゲストが大物演歌歌手のAJさん。
ロンドンブーツ真っ青のシークレットブーツをお履きになり、1センチは浮いてるであろう〇〇を被っておられました。

そんな大御所に聞くなよ~、秋本奈緒美~、「M-AGEの音楽はいかがですか??」って。。
愚問だよ~w

2週目のゲストは世界に名を馳せる天才ギタリスト、渡辺香津美さんでした。
俺、中学生の時に日立市民会館にライブ見に行ってるし。ちょっと緊張したw

てかそんな天才に聞くなよ~、秋本奈緒美~、空気読めよ~
「こういったノイズギターは如何ですかって??」そりゃないだろうよ、脇汗やばいよ~
そこで渡辺香津美さんが一言、「僕ノイズっぽいの好きですよ!」と、笑顔で!

救われました!今でもその瞬間は鮮明に覚えております。
ありがとうございました!!!!


OKAZAKI

ご存知の通りKAJIWARAが脱退してから初めての曲。気負いなく、だけど初期のM-AGEを思い起こせる曲を作りたかった。確かペーちゃんのAKAI MPCで制作していった記憶。
イントロの16 分音符のシンセはRoland JD-800でステップで打ち込んだ。そうステップシーケンスって曲を走らせてレコーディングするのではなくシンセの鍵盤 を弾くと次の音符に進んでいく打ち込み方だ。これの良いところは偶然性でかっこいいものを作りたいときにはもってこいの手法なのである。ベースがいないことを意識してフレーズを打ち込んだ記憶がある。生っぽいけど生っぽくないけどカラオケにあるような感じにならないようにとフレーズと音色にとても時間を掛けた記憶。なにせメインベースのラインを考えるのが初めてだったもんでw
4人で再出発って意味でCall Meのような曲をこの時の4人で作りたかったのかなぁ…。だからリズムが近しい。違いは最初の頃と違ってサンプラー使いに慣れてきたのでリズムループの使い方が上手くなっているところだろうか。


DJ PEAH

B.kajiwaraが脱退してからのM age。なぜかPVを見ると皆元気がいい。これは気持ち的にふんどし締めなおして頑張ろうという現れだったのだろう。サードアルバム収録されているのはイントロでブラックホールにのみ込まれてしまったかのように終わるという。

TALK ABOUT…NEXUS 7

KOICHIRO

ネクサスとは映画ブレードランナーに出てくるレプリカント(アンドロイド)の名前、映画でのレプリカントはネクサス6型、これはM-AGEなりのネクストという意味で7になった。
そもそも僕はこの手のインストは好きな方だと思うし、実際良く出来たと思っているんだけど、この頃の記憶が非常に薄い。ロンドンレコーディングを経て、多少アーティストとして自覚しだした頃でもあったので、やはりジュリアナ東京は嫌だったんだろう。
今にして思えば大した問題じゃないって思えるけど、当時は若かったしね;
この前後、事務所の社長に打ち合わせと称してジュリアナ東京に連れて行かれた記憶がある。しかもVIP席とか恥ずかしいwその光景がロンドンのクラブで見た景色とは余りにも違い、当時まだまだ成熟していない日本のクラブカルチャー、いやあれはディスコ?に愕然としたのを思い出す。

そしてKAJIWARA YUJIが脱退した。
永遠に続くと思っていた関係が音を立てて崩れていく瞬間だったと思う・・・
でも不思議と「解散」って言葉は誰の口からも出なかった。ここでM-AGEの第一章が幕を閉じた。


MIYO-KEN

これ作ってる時はいろいろ悩んでたなあ。。
メンバーみんなそうだったと思う。

作品は悪くないし、いやむしろかっこいいだろ!

今だったら大いに笑い飛ばせるんだけど、えっ、ジョンロビ(決して悪い意味ではないよ。今は言い切れる)??
えっ、ジュリアナ??ボディコン(好きだけど)??

若さ故のナーバス感というか、、セールスが落ち込んできてのプレッシャーとか、大人の言うことは聞くべきか?w
とか。。

なんでも飲み込んでやろうぜ!的なスローガンがあったはずなのに、アーティスティックな自我が強くなってきたのも事実だった。

そしてkajiwaraの脱退。

俺らもけっこうキツかったよな。
これ読んでくれてるファンの方々もそうだったと思う。
俺とkajiwaraがやってたバンドとkoichiroとokazakiがやってたM-AGEが合体して、そこにpeahが加わって体制が整った訳だしね。

この時のROJの記事には正直ムカついたけどw
「こら、鹿野、なんでも書きゃ良いってもんじゃね ーよ!」ってまじ思った。
今は全然へっちゃらだからなんでも言えるw。

そんなこんなで一度立ち止まる事になったわけです(吉村談)


OKAZAKI

どうしようか?ってところから始まった。何故ならば企画はあったが構想もイメージも誰1 人としてなかった記憶がある。池尻大橋のスタジオだった。横ちゃんとメンバーがスタジオでゼロからスタート。テンポは?キーは?CDを聴きまくりサンプリング出来そうだと思ったら片っ端からしていく。いくつか揃うと時間軸に並べていく…するとどうだろう「コレは!?」となる瞬間が出来上がっている。メンバーはその瞬間を見逃すことなく広げていく。形になりそうな断片をまた広げる。広げたパーツに足りない音源を追加していく。
サンプラーを使い始めて間もない頃、同じ音源を同時に鳴らすとフェイズがかかるってなった。コレは自宅で偶然起こった。使い勝手がわからずバグった?って思った。その時である「アレレ?コレは面白い!使える!」って思っていたので早速この曲のイントロで試みた。ピタリとはまった^ ^(心の中でガッツポーズをした)リズムはたたみ込むように激しくしたかったが所謂一般的なフレーズではつまらないと思っていたのでスネアのアクセントになる場所を変えてハメていった。バスドラムはTR-909を歪ませた。(当時ジャーマンテクノだったか忘れたが、高速で歪んだ4分打ちのバスドラムが流行っていた)間奏のスネアパターンはKAJIWARAに頼んだ。案の定最高のスネアパターンを打ち込んでくれた。ベースは横ちゃんのmini moog。
この曲の面白いところは後半になればなるほど激しくなるのに涼しげなアルペジオギターが入ってくるところだろうか。Cool!である。


DJ PEAH

当時ディスコ、クラブなど一線あった垣根も緩和したころに、ジュリアナ東京、
velfarreといった大型のクラブスペースが主流になってきた。そしてそのメインDJをしていたジョン・ロビンソンとのコラボレーション( Remix )話がありNEXUS 7は生まれた。作成も即興、スタジオにこもりました。あともう一曲LIVE用に変な曲を作りましたがデータ記録はもうありません。残念…。
また晴海見本市会場でジュリアナ東京の盛大イベントを行った。この頃ベルギーなどで活動していた2 unlimitedらと共にLIVEを行う。あの時は100人以上のボディコンがお立ち台で踊ってすごい光景。LIVE終了後は控室に直行しそのまま帰宅。もっと楽しみたかったなー。

TALK ABOUT…SINK (2010MIX)

KOICHIRO

原曲はロンドンで、「vibES」のレコーディング時、最後に歌ったと思う。
この曲ではエンジニアのスチュワートとユウジと色々なアイデアを試していた記憶がある。歌入れの時に様々なノイズ音が鳴っていて、歌いにくかったけど、原曲のmixは、非常に感動したのを覚えている。
ユウジが書いたこの詞は重かったけど、このmixには非常合っていると思う。Mix時、僕はほとんどスタジオに足を運ぶ事ができず、途中経過を聞きに寄っただけだったと記憶しているが何でそんなに忙しかったんだろう?そして当時、未来を表す意味で2010 mixと名付けた筈が、時は既に2021 年になってしまった。


MIYO-KEN

この盤に収録されてるのはD2Nバージョンだけど、オリジナルは2nd『VibES』に収録。

ミックスは3ヶ所で行われた。EDEN、SWANYARD、そして翌年のレコーディングでメインスタジオとなる、キルバーンにあったMASTER ROCK STUDIOだ。
エンジニアの個性爆発なミックスがどんどん仕上がっていった。
前途の「真夜中の逃亡者」もそうだが、『VibES』にはバージョン違いが数曲ある。
本当に良い経験をさせてもらったと思っている。

ミックス中はいろんなライブを見にいった。
日本ではありえない金額でだ。ライブのスタートも21時だったり、夕食をゆっくりとった後にさあ、ライブ見に行くか的なスケジュール感が羨ましかった。
決して何方が良い悪いじゃないけど、文化の違いを感じたのは確か。

シープ・オン・ドラッグス、ヤングゴッズ、ミートビートマニフェスト(カタカナでごめん)、日本じゃ絶対見られないであろう対バンw
何より驚いたのは出音の良さと、照明。
失礼な言い方だけど、(勿論現在はそんな事はないのだが)当時の日本の技術はそれと比べたら小学生レベルだったと思う。
それくらいの衝撃を受けた。。もう圧倒的だった!!

帰国の際、ヒースロー空港で一悶着あった。
係員がマルチテープとマスターテープをX線に通せと言うのだ!
中身消えたら泣くぞとか、全額弁償だとか、俺の命だとか、いくら説明してもダメの一点張り(あたりまえだが、、)。
実際なんの問題もなかったんだけどさw
磁気テープだから、やっぱり怖いでしょ、めちゃ苦労して作りあげたんだし、もしもの事があったら。

帰りの便はあまり混んでなかったと思う。シート一列丸々使って横になってたような。。
行きに比べて覚えてる事が圧倒的に少ない。
無事に作り終えた事の安堵感と、たまった疲れがピークだったのだろう。

もしかしたらこれまで生きてきた中で、一番濃密な40日だったのかもしれない。


OKAZAKI

Remixの作業工程を見ることが出来た唯一の曲。当時はPCではなくRolandのHDレコーダーだった気がする。エンジニアさんが持ってきていた気がする。
所謂マルチテープからレコーダーに取り込んで各パートの音をコラージュしていくのだ♫これは楽しいと感じた。プラスそこにシンセやリズムを新しく入れたりオリジナルトラックのサウンドを追加していくのだが、このmixはとてもシンプルに聞こえる。マジックだ、それを横で見ることが出来てとても嬉しかった記憶。


DJ PEAH

原曲では民族音楽のサンプルが楽曲にベストマッチして盛り上がった思い出。サンプリングとはいえ当時では見つけるのも一苦労。現代ようなネタの多さではない。B.kajiwaraの思いのこもった曲です。