TALK ABOUT…NEXUS 7

KOICHIRO

ネクサスとは映画ブレードランナーに出てくるレプリカント(アンドロイド)の名前、映画でのレプリカントはネクサス6型、これはM-AGEなりのネクストという意味で7になった。
そもそも僕はこの手のインストは好きな方だと思うし、実際良く出来たと思っているんだけど、この頃の記憶が非常に薄い。ロンドンレコーディングを経て、多少アーティストとして自覚しだした頃でもあったので、やはりジュリアナ東京は嫌だったんだろう。
今にして思えば大した問題じゃないって思えるけど、当時は若かったしね;
この前後、事務所の社長に打ち合わせと称してジュリアナ東京に連れて行かれた記憶がある。しかもVIP席とか恥ずかしいwその光景がロンドンのクラブで見た景色とは余りにも違い、当時まだまだ成熟していない日本のクラブカルチャー、いやあれはディスコ?に愕然としたのを思い出す。

そしてKAJIWARA YUJIが脱退した。
永遠に続くと思っていた関係が音を立てて崩れていく瞬間だったと思う・・・
でも不思議と「解散」って言葉は誰の口からも出なかった。ここでM-AGEの第一章が幕を閉じた。


MIYO-KEN

これ作ってる時はいろいろ悩んでたなあ。。
メンバーみんなそうだったと思う。

作品は悪くないし、いやむしろかっこいいだろ!

今だったら大いに笑い飛ばせるんだけど、えっ、ジョンロビ(決して悪い意味ではないよ。今は言い切れる)??
えっ、ジュリアナ??ボディコン(好きだけど)??

若さ故のナーバス感というか、、セールスが落ち込んできてのプレッシャーとか、大人の言うことは聞くべきか?w
とか。。

なんでも飲み込んでやろうぜ!的なスローガンがあったはずなのに、アーティスティックな自我が強くなってきたのも事実だった。

そしてkajiwaraの脱退。

俺らもけっこうキツかったよな。
これ読んでくれてるファンの方々もそうだったと思う。
俺とkajiwaraがやってたバンドとkoichiroとokazakiがやってたM-AGEが合体して、そこにpeahが加わって体制が整った訳だしね。

この時のROJの記事には正直ムカついたけどw
「こら、鹿野、なんでも書きゃ良いってもんじゃね ーよ!」ってまじ思った。
今は全然へっちゃらだからなんでも言えるw。

そんなこんなで一度立ち止まる事になったわけです(吉村談)


OKAZAKI

どうしようか?ってところから始まった。何故ならば企画はあったが構想もイメージも誰1 人としてなかった記憶がある。池尻大橋のスタジオだった。横ちゃんとメンバーがスタジオでゼロからスタート。テンポは?キーは?CDを聴きまくりサンプリング出来そうだと思ったら片っ端からしていく。いくつか揃うと時間軸に並べていく…するとどうだろう「コレは!?」となる瞬間が出来上がっている。メンバーはその瞬間を見逃すことなく広げていく。形になりそうな断片をまた広げる。広げたパーツに足りない音源を追加していく。
サンプラーを使い始めて間もない頃、同じ音源を同時に鳴らすとフェイズがかかるってなった。コレは自宅で偶然起こった。使い勝手がわからずバグった?って思った。その時である「アレレ?コレは面白い!使える!」って思っていたので早速この曲のイントロで試みた。ピタリとはまった^ ^(心の中でガッツポーズをした)リズムはたたみ込むように激しくしたかったが所謂一般的なフレーズではつまらないと思っていたのでスネアのアクセントになる場所を変えてハメていった。バスドラムはTR-909を歪ませた。(当時ジャーマンテクノだったか忘れたが、高速で歪んだ4分打ちのバスドラムが流行っていた)間奏のスネアパターンはKAJIWARAに頼んだ。案の定最高のスネアパターンを打ち込んでくれた。ベースは横ちゃんのmini moog。
この曲の面白いところは後半になればなるほど激しくなるのに涼しげなアルペジオギターが入ってくるところだろうか。Cool!である。


DJ PEAH

当時ディスコ、クラブなど一線あった垣根も緩和したころに、ジュリアナ東京、
velfarreといった大型のクラブスペースが主流になってきた。そしてそのメインDJをしていたジョン・ロビンソンとのコラボレーション( Remix )話がありNEXUS 7は生まれた。作成も即興、スタジオにこもりました。あともう一曲LIVE用に変な曲を作りましたがデータ記録はもうありません。残念…。
また晴海見本市会場でジュリアナ東京の盛大イベントを行った。この頃ベルギーなどで活動していた2 unlimitedらと共にLIVEを行う。あの時は100人以上のボディコンがお立ち台で踊ってすごい光景。LIVE終了後は控室に直行しそのまま帰宅。もっと楽しみたかったなー。