TALK ABOUT

TALK ABOUT…MUSIC #03

KOICHIRO

そして現在、様々な出会いや別れ、そして色々な事を経験し、みんな大分大人になってたw
こうやって始めてみると、そこには変わらないメンバーがいて当たり前の音を出している。

僕は昔から自分の声が嫌いだった。僕の好きなボーカリストはみんな低音が出るボーカリストばかりだったからだ。だけど再結成していざ歌ってみると、そこには誰かに憧れを抱いていた自分はいない。さすがに自分の声に諦めがついたのか、後はどこまで自分らしく歌えるか?そんな事ばかり考えながら歌っている。そして最高に楽しいです。喉の問題もあるけど今は出来る限り続けたいと思ってます。


MIYO-KEN

12歳の冬にギター(アコースティック)を手にしてからは、掌を返したように野球には1ミリの興味も無くなってしまった。それまでは高田繁(ジャイアンツの名選手。第一期長嶋監督時代にレフトからサードにコンバートされて話題になった)の青いミズノの指出しグローブが欲しい物リストのナンバーワンだったのに、それは100位圏外に消えてトップ10入りしたのはギターに関する物、聴きたいレコード、と、少しばかりのエッチな本だった(まだまだ可愛いもので、「けっこう仮面」で喜んでいた。注釈付けたいけど興味ある人は調べて下さい。永井豪の傑作で実写で映画にもなってます)w。

小6で同じクラスだった清水君は僕より半年ほどギターを弾き始めたのが早く(後にバリバリのヤンキーになってバイクに乗るのも、事故るのも、結婚するのも、起業するのも早かった。僕のデビュー後に実家に訪ねて来て母に名刺を置いていったっけ、その裏には頑張っての一言が添えてあった。嬉しかったよー。後にも先にもギターを教わったのは彼だけかもw。元気かな?)、少しだけ年の離れたお姉さんがいて、彼女の影響だと思うが小6ながら井上陽水、かぐや姫、吉田拓郎、グレープなどを聴いていて、それらの曲をギターを弾きながら僕に歌ってくれた。いやいやめちゃすげ~ってなったよ、こっちは始めたばっかりでAmとEmしか知らないのに、Fまで押さえてアルペジオやスリーフィンガーでやるんだからさ!!

そんな彼とは中学は別々になって、さほど会うこともなく(会うのは野球の大会くらい。当時の田舎の中学は何かしらの運動部に入るのが暗黙の掟の様な風潮があった。僕も彼も野球部を選択)、テレビやラジオ、雑誌などから情報を得てギターと歌wの練習に励んだ。
グレープ解散後のさだまさし、長渕剛(当時は今の風貌からは想像できないくらいの好青年的ルックスw)などアコースティックギターがフューチャーされた音を聴いていた。

長渕剛の名曲「夏祭り」が弾けるようになるまでには相当な練習が必要だった。右手の爪を伸ばし、野球部の監督に怒られながらも(ボールを投げるので生爪を剥がす等の怪我する確率が高くなるため御法度)、それこそ左手の指から血が滲む位の練習をした。「好きこそものの上手なれ」ってことわざあるけど、自分で言うのもなんだが、まさしくこれを体現してたと思う。指が痛くても全然苦にならなかったし、多分この時が練習量的にはMAXだったんだろうなw。

今でもさだまさしは好きで、「朝までさだまさし」(NHKの番組)とか見るよw。
「まほろば」って曲があって、歌詞も歌唱もめちゃ凄いのでYouTube等で見て頂ければ。
是非ライブバージョンで!!

アコースティックな流れでフォークな話だったけどw、いつかはエレキって気持ちも持ち続けていて、ツイストはずっと僕のアイドルだった。アルバム、シングルは全部持っていたし、水戸の県民文化センター(後にM-AGEもここでライブをやる事になる)までライブを見に行ったり、先日、全曲解説のMOTHERでも話したけど、日立市民会館で渡辺香津美を見たり。

坊主頭にアディダスのウインドブレーカー(かなり古い呼び名w)を着たド田舎の少年にとって、ステージに立つ人たちは、それはもう雲の上どころか、地球外生命体ってくらいに何億光年も遥か彼方の異次元の住人であって、瞬きをするのも惜しむくらい彼らの一挙手一投足をガン見していた。

とはいえエレキを手に入れるのは高校に入ってからの話で、そんなエレキギターなる代物は、毬栗頭の中坊脳内で強い憧れとともに、ジュラ紀の恐竜のごとく、こんな感じで有ろう的な想像上のモノでしかなかった。

こんなエピソードも。ツイストの歌本(一応楽譜になっていてコードやギターソロが採譜されている)を手に入れジャガジャガやっていたのだが、どうにも飽き足らず事もあろうかアコースティックでエレキのソロを弾いてみようと、かなり背伸びをした挑戦を試みた。
フレーズを口ずさめる位にレコードを聴き込んでいたので、エアギター的にはバッチリだったし、自分の弾けている姿の脳内変換も100%完了済み。

しかーし、譜面には音楽記号にはない謎のアルファベットが、、???? えっ、なにこれ、cho??、やたらと出てくるんだけど。

なんてことはないただのチョーキング(弦を指板上で押し上げて音程を上げるテクニック)なのだがアコースティックしか弾いたことがない中坊にとっては未知との遭遇であった。
弦の太さがエレキとアコースティックではまるで違うという事すら全くもって知る由もないわけで(弦が細ければ細いほど容易になる)、めちゃ太い弦でチョーキングの真似事をし、自分の弾けている姿の脳内変換、ほんの2%も達成できなかったのは言うまでもない。

この時思った事。プロは指の力も一流でなくてはならない!!
どんな練習をすれば指力が強くなるのか? 生まれつき俺の指力は弱いんじゃないのか?

いやいや、マジで悩んだww。

エレキを手に入れて初めてチョーキングした時にマイケルシェンカー(2音半チョーキングとか平気で速弾きに盛り込んでくるスーパーレジェンドギタリスト。白黒ツートーンのフライングVでお馴染み)並みに音程が上がった事は想像に難なくないw。

ダメだ、3回じゃ書き切れないや笑。

まだ洋楽と出会ってないし、中学も2年生位の話だ。。

またの機会に話の続きをしよう。皆さん興味があればの話だが笑。


OKAZAKI

ん?…いやいや!
先日言った色々な誘惑の中に幼馴染だったkoichiroから今度バンドやるんだけど演らないか?と誘われて、それからは日本のロックではザロッカーズやルースターズ、BOOWY、海外ではThe Rolling StonesやDAVID BOWIEなどにドップリハマっていった。
オレの家が練習場所だった♫

それからはみなさんご存知のM-AGEになっていくわけです♫

ということで自分が影響を受けた作品のご紹介で御座います♪♪
01.The Beatles/With The Beatles
02.The Rolling Stones/Love You Live
03.BOOWY/INSTANT LOVE
04.The Roosters/The Roosters
05.The Beatles/The Beatles(White Album)

まだまだお気に入り作品が沢山ありますがいつかまたご紹介出来ればと思います~♫


DJ PEAH

最初は先輩のミキサーを譲ってもらい、家にあるプレイヤーを使って DJプレイ、テクニクスのプレーヤーじゃないので耐久性なし、アルバイトしてお金を貯めて mark2買いましたね。機材がそろってからは毎日触っていました。恋人みたいに・・・。

レコードは2枚買いが当たり前、2倍2倍(高見山大五郎)本当にHIPHOPは金がかかります。 この当時1988年でDJの大会に興味を持ち始めます。DJバトルやDMC大会にも出ました。

そんな中HIPHOP仲間だったユウ・ザ・ロックの紹介で仕事をし、M-AGEのレコーディングに繋がっていきます。

正式メンバーとして加入後は演奏者という立場から、あらゆるジャンルを聴き学ぶようになり好きになったことが多いです。感謝。

TALK ABOUT…MUSIC #02

KOICHIRO

そしてバンドを組む事になる訳だが、最初は歌を歌おうなんて、1ミリも思わなかった。
仲間内では1番ギターが下手だって理由から歌になったw
ドラムは先輩のバンドで幼なじみのOKAZAKIしかいないって最初から思ってて、先輩のバンドだから最初は手伝って~的な流れからメンバーにしてしまえw
って狙ってましたw

その頃、先輩たちにBEATLESやSTONES、そしてBluesの楽しさを教えて貰った時期でもあった。

毎週、日曜にOKAZAKI宅に遊びに行っては録画したベストヒットUSAやTVで流れてきたMVなんか観ながら練習したり楽しかった時代でした。後にカヴァーする事になるマイケルの「BEAT IT」もその頃よく観てた。

時は変わって80年代も終わりを迎える頃、Peah以外の4人になっていた。この4人になってからよく練習し、よく音楽談義なんかもしてた時期だ。週末は皆で飲んで、その後、クラブにもよく遊びに行った。芝浦GOLD、青山MIXとか、音楽を耳で聞くのではなく体で体感できる場所としては当時の僕達にとって最高の空間だった。レゲエ、ワールドミュージック、ハウスそこでは心地よく響いているのである。その経験が自分たちの音楽に真剣に向き合うきっかけになったのだと思う。僕たちの夜明け少し前の話。


MIYO-KEN

小学生の時は御多分に漏れず野球少年だった。。
普通にピンクレディーに熱狂し、キャンディーズでは誰が好きとか(兄姉がいるとピンクレディーよりキャンディーズが好きって人多かったかも)、西城秀樹のアクションすげ~とか、たわいもない話ではしゃいでいる至って普通の子供だったと思う。

ある時までは。。

関東圏のみの放送だったのかな、夕方から、多分、毎日やってたのかな。
「銀座NOW」って番組があってさ、そこに登場した原田真二、チャー、ツイストに圧倒されちゃって。。当時ロック御三家って言われてた方々(何ともまあ仄々した呼び名だけど)です。
モンキーズに嵌ってたクラスメイトもいたけど(再放送だと思うがモンキーズの番組も夕方放送されていた)、僕は圧倒的にツイストだった!!

今ではツェッペリンのギターが云々とか畏まった事言うけど、僕の本当のエレキギターディストーション原体験はツイストですからw。まだこの時は自分でギターを弾くとか露程にも思わず、実際に手にするのはこの体験から半年程先だったと思う。

祖父、父の事は前途したが、そういった環境だったので僕の2人の妹は幼い頃からピアノを習っていた。僕も何度か一緒にレッスンを受けたことがあったのだが、将来の目標はジャイアンツ入団だったので(当時の男児の半分以上は同じ夢を掲げていたw)、たいした興味も持てず流してしまった。この事、今では滅茶苦茶後悔している。あの時きちんと習っていれば、続けていればと何度思った事だろう。今では譜面(簡単なやつねw)の読み書きもある程度はできるようになったけど、M-AGEの解散後に初めてアレンジの仕事をした時は譜面の書き方がわからなくて、とても恥ずかしい思いをした。。和音の理論とかも知らなかったし。。

勿論そんなもの無くても良い音楽は作れるんだけど、初めて会う人と音を出すに当たっての共通言語としては必要なモノだと思ってます。勿論M-AGEでは譜面使った事ないけどね!(使うわけないわ、共通言語は「だっぺ」だし。全てこれで事足りるw)

そんな父が、小6の2学期の終わり位だったかな、『ケン坊(今でもこう呼ばれてます)も何かひとつくらい楽器が出来た方が大人になってから楽しいぞ』と。僕も普通にそんなもんかなって感じでギターを始める事になったのだが、この出来事が僕ら親子の将来を大きく変えるターニングポイントになるとは全くもって想像出来なかった。

冬休みに入ってすぐに、日立の銀座通りの入り口にあった寿屋(質流品や中古を扱う店、後から知ったw)に向かった。僕はその店がどういった類いのそれかは知らなかったし、車からも降ろして貰えずに妹たちとどんなギターを買って来てくれるのかワクワクしながら待っていた。
父にしてみれば僕がギターを続けるかどうかもわからないのに、値段が高いの選ばれてもなんだし、色々と考えてお店に連れて行かなかったんじゃないかなww。

余談だが姪っ子にギターを買ってあげたことがあった。
もう結婚もして立派な大人だけど、彼女が中学の時かな、映画の「Nana」だっけ?中島美嘉のglamorous skyがヒットしてさ、電話かかって来て「いらないギターある?」って聞かれて。
話を聞くと、どうやら学祭でバンドを組んで演奏したいと。

俺的にはさ、家族、親戚の間で頼られるような事は仕事的にも生き方的にもほぼ皆無だったし、「よっしゃ、俺にまかせろ!!」な感じで気合入れて色々と見繕ったのよw。
赤いギターが欲しいって事なので、ジャズマスター、テレキャス、ジャガーなんかをピックアップして画像を送ってあげてさ。そしたら返信で予算云々って言うから、いやいやケンちゃんが(甥っ子、姪っ子にはこう呼ばれてる)買ってやるよ、心配すんな!!って事で叔父さん的な株を上げて、自分がギターを買って貰った時のことを思い出したりして、ほのぼのした気持ちになったり。

新宿の石橋楽器で赤いジャガーと小さなアンプを買って送ってあげた。勿論叔父さんがギターを調整して弾き易くしてね。
その後学祭が上手くいったかどうかの連絡はなかったなw。
ギターを続けた形跡もなかったw。

浦沢直樹の「20世紀少年」の映画が公開された時に、そのギターでT-REX弾いてあげたらスゲ~って絶賛された事もあったな。いやいやムードに拘らなければ誰でも弾けるしw。
そのムードを醸し出すのがめちゃ難しいんだけど。ここ一番大事なポイントね!
おいおい、ギター講座じゃねぇからw。

話戻すけど、そんな12歳の冬に一生を左右する運命的な出会いをしてしまった訳だ。

長くなったので無理矢理まとめる。。

次回に続く!!


OKAZAKI

ドラムを演る事になったけど近所のお兄さんからお古のフォークギターをもらった。
なのでギターも演っていた。っていうよりいじっていた(笑)当時のアイドル雑誌のフロクに付いていた歌本をみまくって流行りの歌を弾いてコードを覚えていった。
ドラムの練習といえばほとんどみていないそのアイドル雑誌が練習台になっていた。
足の練習は…そこまで出来ていなかったのが正直なところかなぁ^^;
ただThe Beatlesの自分が演奏する曲は聴きまくった♫
仲良い友達にカセットに録音してもらって聴いていた。
学園祭で初めて人前で演奏をした。
ご想像の通り、それはそれは楽しかったよ♪♪
そして高校生になってよせば良いのにまた吹奏楽部に入部した。今度は打楽器パートを希望したんだ。この学校の吹奏楽部は女性が多かった憶えがある。打楽器の先輩も女性だった。丁寧に教えてくださった♫
あ、その時のエピソードがある。
入部してすぐに「岡崎くんドラムやってるって言ってたよねー♫ ロール出来る?」って聞かれて、心の中で[ん?よくわかんないけど…今なんて言った?ロール?…。…。…。あ、ロックンロールのことか!!]と勝手に解釈して「はい!!出来ます!!」と堂々と答えたら、ロールとはスネアを連打する奏法だというのは後からわかった。
顔中が真っ赤になって大汗をかいたのは言うまでもない(笑)

それからは学校で練習が出来てスタジオに行かなくてもドラムが叩けることが嬉しかった。
が、時が経つにつれさまざまな誘惑に負けて部活動に行かなくなっていった。
ある時後輩の女子から「先輩!部活に来てください!!」って言われてすっごい嬉しかった♫^_^

野球部の大きな大会にはすすんで参加した♫
何故ならドラムを思いきり叩けるからだ。
ある大会では対戦校の吹奏楽応援のドラムが派手だった。
オレも負けじといつも以上に叩きまくった。
ウチの吹奏楽部の先生は指揮者だったが、岡崎もっと行け!!って感じでコンタクトが大きく振られていた。
って言う高校生の思い出。


DJ PEAH

そんなストレスからか、高校でおしゃれにはまりました。DCよりもパンクファッション、その時、革ジャンは高かったので、モッズコートにヴィヴィアンTを着ているのが当時私のユニホー ムでした。マーチンラバーソールを履き、常にVESPAに乗って走り回る。そんな日々です。

ファッションと同じタイミングで音楽も同時進行。アパレル関係のパーティには必ず顔をだし踊っていた。オールジャンル選曲するDJを見てからあこがれを抱くようになる。その選曲の中でRAPに興味を持ち始めHIPHOPを知ることになった。バンド演奏とDJプレイがごちゃ混ぜで一つになるプレイがHIPHOPのDJだったのだろう。あこがれの先輩とは須永辰緒先輩でした。

TALK ABOUT…MUSIC #01

KOICHIRO

オーディオマニアの父に最初に買ってもらったレコードは「黒ネコのタンゴ」。歌うのが楽しかった最初の記憶だ。小さい頃のフェイバリットソングは特撮ヒーローものばかり、小学校に通う道を歌いながら歩くのが毎日の日課であり楽しみだった。その中でも特に気に入っていたのは、スーパーロボットマッハバロンのOP!今聴いてもかっこいいロックンロール!そしてシンセサウンドも素晴らしい!

11~12歳の頃、父のステレオから流れてきた冨田勲氏のレコード(アルバムは覚えていない)を聞いた時、今までに聞いた事のなかったスペーシーなシンセサウンドに高揚した。
それから程なくしてYMOを聴いた。キラキラしたシンセサウンドにワクワクが止まらなかったのと同時に歌が無い曲を初めて好きになった。

中学生になるとPUNKやNEW WAVE、日本では東京ロッカーズ、めんたいロックなんかも聞いた。バスケットボール部に入っていたが途中から、髪は立てる!TシャツはナイキからSEX PISTOLSに!とヤンキー全盛期の時代に違う意味で目立っていたw

高校生になるとギターを買った!本当はシンセが欲しかったが、その頃のシンセは簡単に買えるような値段じゃなかったって理由。


MIYO-KEN

幼い頃から音楽は身近にあったと思う。父方の祖父が音楽好きだったこともあり(かなり昔の話だが映画になる前の活動写真の時代に、弁士(ナレーション担当)の隣で音楽を奏でる役(BGM担当)でバイオリンを弾いていた。田舎では向かう所敵なしで一旗揚げようと上京したのだが、すごい演奏家が多くてすごすごと引きあげたらしいw)、バイオリン、チェロ、トロンボーン、ピアノ、尺八など沢山の楽器があった。父は嗜む程度だったが、クラッシックや古賀正男全集などのレコードを聴いていたように記憶している。

僕も幼稚園に入る前か後か定かではないが「東京子供倶楽部」なるレコード(確か毎月LPレコード1枚が郵送されて来た。内容はグリム童話などを子供でも理解しやすいように噛み砕いたお話とお歌だったと思う。あれ? EP? ソノシート? と、絵本か?今に残っていれば貴重な資料だが、家を新築する際に母が捨ててしまった。。)やアニメ主題歌大全集などを聴いていた。人気雑誌の「昭和40年男」の読者なら言わずもがな、な「赤き血のイレブン」「リボンの騎士」「キックの鬼」「マッハゴーゴー」など当時の人気アニメの曲が収録されていた。

当時のステレオはというと、というか家電全般に当て嵌まるのだろうが、家具調の馬鹿でかい物が主流だった。現在のなんでもコンパクトに作る風潮とは真逆で、どうなんだろう、当時の大都市の住宅事情とかにはマッチ(死語)してたのかな??テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と言われた時代の少し後だったと思う。

そんなステレオの前で、買ってもらったレコードを開封してまずはアニメキャラが描かれているインナーを飽きるまで眺め、次に盤を取り出しターンテーブルにセット。家にあったステレオはフルオートでは無く、針を落とす時は手動だった。この歳になってもこのアクションは緊張するしワクワク感も半端ない訳だから、子供ながらにテレビではワンコーラスしか流れない歌をフル尺で聴けると言う事に最高の幸せを感じていたのだった。それに飽きると回転数(33、45、78回転。これらを変えると当然の事ながら再生速度と音程がかわる)を変えて早口で歌ってみたり。余談だが、初めてサンプラーを触った時にこの時の記憶が蘇ったw(発売当初のサンプラーは理屈的に同じ)

そんな幼少期のアイドルはもう断トツで麻丘めぐみ!!
今でも年に4回は決まって「めぐみブーム」がやって来てはYouTubeで同じ映像を見ているw
お箸を左手で持つ人を左利きって知ったのは彼女の曲「わたしの彼は左きき」から。曲中にコーヒーを飲む描写は出てくるけどお箸は出てこないよ。「♫意地悪 意地悪なの~」って箇所があって、所謂サビのピークなんだけど、平仮名にするとこんな感じで、「♫いじぃ~っ、わるぅ~っ、いぃ~じぃ~わぁ~るぅなぁのぉ♡」、、もう今でも悶絶w。
えっ、気持ち悪い? いやいやみんなあるでしょ? 特に男子はね、こういうのw。
「芽ばえ」「女の子なんだもん」も名曲です。現在はこの2曲の様な内容のものを総じて「喪失歌謡」と呼ばれるらしいよw。ま、言ったもん勝ちなネーミングだけどな。。

しっかし中学出たての女子に歌わせっか?w 山口百恵の「ひと夏の経験」もそうだけど、当時の歌謡曲エグイわw。最近だと、ん、最近でもないか、スピードくらいでしょ?子供にエロい事歌わせたのってw。

この頃聴いたものって嫌でも自分の血肉になってんだろうな。
麻丘めぐみが血肉ってのも嬉しいやら恥ずかしいやら、なんかいやらしいww。

かっこいいやつは山本リンダ、フィンガー5とかでさ、バリバリの16ビートでめちゃ跳ねまくってる曲ね。

ピンクレディーの登場はもうちょい後。

今回はここまで、次回に続くー!


OKAZAKI

まだ物心がつく前からポータブルレコードプレイヤーを与えられていたんだ。
持っていたレコードと言えば子供向けのアニメやヒーロー者のテーマ曲のオムニバスレコード1枚とおまけについて来たソノシートレコード数枚だった。朝から晩までオモチャと言う感覚でずっと聞いていた♫いや、かけていた。
確か…鉄腕アトムやウルトラマン、オバケのQ太郎、ゲゲゲの鬼太郎等々が収録されていた。
2歳~4歳くらいのことだったかな?
先ずコレが音楽とのはじめての出会いな感じ^_^

幼稚園、小学校と音楽の時間は好きだった。
中学生になって吹奏楽部に入部するも「アレレ?マジメじゃん」ってなって夏休み前に退部しちゃった(^_^;)
その後はバスケ🏀 部に入ってた(笑)

音楽の授業もベートーヴェンとかの歴史の事になった途端にダメになっちゃって、中3の時に仲良かった友達からバンドやるんだけどって誘われて、でも何のパート演るかは決まってないの(笑)それで放課後に誰もいなくなった音楽室に行ってみんなで「せーの!!」ってオレの掴んだのがスティックだったって感じではじまったのがThe Beatlesのコピーバンドだった♫

そこからがなんだか毎日が楽しくて楽しくてしょうがない日々がはじまったのかな^_^
The Beatlesがすんなり入って来たのは、やはり小さい時に親にエルビスプレスリーやポールアンカなど50’sを聞かされていたのもあって曲の構成や展開などが違和感なくスムーズに入ってきたのは記憶にある。
あ、そうそうThe Beatlesを知った時にはもう解散してた…(先日、SNSでもM-AGEを知った時には解散していた…ってあったね)(T . T)


DJ PEAH

子供の頃を話します。ませてきたのは中学生くらいから、小学生からやっていた柔道を中学に入っても続けた。柔道部部長でしたので責任がありましたね。また地方出身だったのでヤンキーが多かったんですが、同世代にはいませんでした。2年先輩の代がピークでしたね。ヤンキーとは常に平行線でした。ませていたためよく目をつけられていましたね。たまに柔道部室にヤンキーが来て勝負を申し出てくる先輩もいました。今思えばそれって友好的な交流じゃないか!?と思えてきます。

中学3年生くらいになると髪の毛も坊主から長髪に変わり(IBカット、テクノカット)整髪料を使い始めました(実家美容室だった為)当時学校ではタブーでしたね。そして今度は先生に目を付けられるという。もちろんタバコは吸いませんでした。

TALK ABOUT…BIRD CAGE MV

KOICHIRO

BIRD CAGE っていうタイトルは、昨年8月末のアーティスト写真撮影時には決まっていた。その時点では、まだ歌メロは確定してなかったかな?曲を流しながらの撮影に気分も上がった。後日リハスタでかっちゃんのドラムが決まっていく様子を見ながら、妙に納得する自分がいた。打ち込みオンリーだと生ドラムを叩きながらテンポを決めるなんてあり得ないし、やっぱりバンドなんだと実感した事だ。
11月初旬レコーディング。生ドラムによるグルーヴ感、ミヨケンのギター、Peahのスクラッチ、そして僕の歌が入ると紛れもないM-AGEの音となった。昔と違うのは、レコーディング時間だろう。シークエンスやブレークビーツなどの音は既に出来上がっているので、圧倒的に短時間で臨む事が出来る。昔の様に印象に残るような出来事もないまま歌もドラムもツルっと終わってしまった。
当初からMVをどうするか?が問題であった。この状況の中で撮影するのは困難だろうと容易に想像ができたからだ。緊急事態宣言の解除を待ってからの撮影するか、強行に撮影するか、せめぎ合いの状況だったのは11月も中旬を過ぎた頃。僕が作る事も考えたが、それには時間が無い。そこでミヨケンの知り合いである若手クリエイターの作品を観たところ、BIED CAGEの世界観が想像できた。そこから撮影に入るまで1ヶ月かからなかった。
12月初旬にゲリラ的に撮影を敢行。不謹慎ではあるが、MVの撮影でこういう経験は無かったので気分が上がったのは僕だけではないだろう笑
夜も21 時を回った頃に集合し、23時前に夜の渋谷へと繰り出したその日は、非常に寒かった。非常事態宣言の真っ只中なので、撮影者のみクルーと場所に向かい、他のメンバーは車で待機。僕は最初と最後の出番だったので途中ずっと車で待機、その間一人で渋谷をぼんやり眺めていたのだが、ほんとに非常事態宣言中なのか疑問に思うほどの人が歩いていた。時計の針は24時を回っていた。
最後の出番は渋谷駅前スクランブルでの撮影だ。信号が青に変わったら走って中央まで行きカメラを回し、赤になったら戻るっていうのを何度が繰り返したんだけど、良く警官に止められなかったなと今にして思う笑笑 時計の針が2時を回った頃に終了。
出来上がったMV は想像以上の出来栄えだった。過去と今と未来が溶け合った今の僕たちを上手く表現出来ていると思う。
※世界観についてはミヨケンとのシリーズインタビュー#3を観て下さい。


MIYO-KEN

とにかく寒い1日だった。
去年の12月某日は、間違いなく年末にかけて一位二位を争う寒さだったと思う。
21時過ぎにオフィスに集合して、監督、カメラ、各スタッフと全然関係ない話をしながら、渋谷に繰り出す時間を見計らっていた。
勿論、各メンバーがどういったロケーションで撮影するかは監督の中で出来上がっているので大きな不安は1ミリも無かったと思う。
とはいえ、四半世紀を跨いでのMV撮影である。
当時と同じクオリティー(ここでは肌艶、お尻の大きさなどw)で映像が残せるとは僕ら自身も思っていない訳であり、各々が大人の魅力とは何ぞやと自問自答を繰り返し納得がいった上で(あくまでも個人的なOKレベル)、俺って最高な気分で撮影に臨んだはずだ。
役者が良いのか編集が巧みなのかは、このMVを見てくれた方々の判断が一番正しいと思う。
敢えてどちらかとは聞かないがw

23時少し前だったと思う。二台の車に分乗し渋谷、桜丘へ。
先ずはKoichiroのシーンからの撮影だ。
勿論道路の使用許可など取ってる訳もなく、全てにおいてゲリラ的な撮影だ。
監督、カメラ、僕、事務所スタッフ、そしてkoichiro、通行人がいないのをスマホで連絡し合ってGOの合図を出し撮影スタート。
今回のMVはご覧の通りただ歩くだけ。歩くだけと言っても監督のイメージに沿って歩くのでスピード、目線の置き場所、背中の丸め具合など注意するポイントは少なくない。
夜も遅い時間なので通行人も少なく順調に撮影は進む。
流石に渋谷駅前246を渡る歩道橋のシーンは終電間近という事もあり、通行人込での撮影となり、かえって現在の渋谷を切り取るという意味でリアリティーは増したと思う。平時に比べ圧倒的に人の数が少ないのだから。

二番手は僕。円山町に場所を移して撮影再開。
日曜の夜、しかも終電後だというのに綺麗なお姉さんと不釣り合いなおじさんがホテルから一緒に出てきて、「ありがとう、楽しかったです!またよろしくお願いします。」と挨拶を交わしお互いに背を向け合い別方向へ歩き出す光景を何度か見かけたw
そんな場所での撮影は人の写り込みは絶対にNGなので、カメラをこまめに止めながらの撮影となる。赤やピンクのネオンが多いので場所なので、ロケーション的に困ることは無かった。おじさんはホクホクだろうけど、僕はめちゃ薄着での撮影で激寒だったのだが。。。
もうひとつ気づいたこと。店舗型のお店ってめちゃ減ってるのね笑。

三番手はpeahちゃん。パルコ方面に場所を移して撮影再開。
この場所も渋谷を切り取るには欠かせない場所だ。
終電もとっくに終わってる時間なので通行人はほぼいない。
ここもロケーション、明るさ、お店のネオン的に最高の場所なので滞り無く撮影は進む。
響くのは僕らの声だけだ。行くよーとか、もちょいゆっくりとか、目線はずしてーとかそういった類のね。場所をいくつか移してこのシーンも無事撮影終了。

再度場所を移してokazakiの撮影。
近年、この宮下公園付近は一番変わった場所だろう。青いテントは無くなり、ハイブランドのお店が立ち並ぶ渋谷を代表するエリアのひとつとなった。
ただこの場所は昼と夜の落差が激しい。派手な照明が消えると一気に寂しい場所へ変貌する。
他の撮影場所と比べると深夜の宮下公園は若干地味なのだが、ここも渋谷を切り取るという意味では外せない場所。身を切るような寒さに耐えながら撮影は順調に進んだ。

そして最後はスクランブル交差点での撮影。
信号が青の時間でしか撮影できないので、何度か立ち位置や、表情の確認などカメラテストを行った上での撮影となった。
信号が青になる度に小走りするkoichiroとカメラと監督。しかも薄着。。
僕は横断歩道の端に立ち、信号点滅~とか車来ます~とかADの役割w。
変に薄着なおじさんたちが大声で安全確認し合う、変にシュールな光景w。

四半世紀ぶりのMV撮影は無事終了。

あとは監督の編集を待つばかり。
先ずはカット割のチェックから始まり、CGの入り方の確認などを経て作品が完成。

良いMVが出来たと思う。
ただ歩いているだけなのだが、ここに大きな意味が隠されています。

皆さんそれぞれで感じて頂ければ、これ幸いかとw


OKAZAKI

まだ暑い夏の日だった、そうM-AGEのアーティスト写真の撮影の日だった。
4人が揃って「何か」をするのはホント久しぶりだった。

1人ずつメイクルームへ向かう。何年振りだろう…こういうワクワク感になるのって。もちろん不安もあったりするけど「そんなもんどうにかなる!」ってこの時点で既に思っていた。
昔からそうだがM-AGEメンバーは全員が腹を括るとソレからは速い。「ススメミライヘ」なのだw
最初にメイクルームに入ったのは確かKoichiroだったかな。終わって出て来たら思った通り「スイッチ」が入っていた。「うん!」
他の3人はソレを見て感想を言うこともなくメイクは進んでいく。
その中でMIYO-KENが「ちょっとコレ聞いて欲しいんだけどぉ」っていつものイントネーションでwノートPCと取り出し曲を聞かせてくれた。
そこにはもうMIYO-KENの仮歌ではなくKoichiroの歌が入っている新曲のデモだった。紛れもなく「THE M-AGE」だった♫興奮を抑えて「いいんじゃない」って格好をつけて言ってしまったのを憶えている。照れ臭かったのかなぁwなんだかそんな事も昔の自分に戻っていたのか…恥ずかしいw
何度リピートしたか憶えていないが、相当聞いた気がする♫そう聞いているときは自分のパートのことをイメージしたりして聞くのだが何パターンもイメージが湧くのが楽しかった。

数日してレコーディングになった。あ、その前に1度プリプロを兼ねたリハーサルしたっけ♫^^;
シーケンスや構成、リズムパターンなどを確認、決めて行く。
元々ドラムは生が良いと言っていたのでスタジオで音合わせをするより前から1人でスタジオに籠ったこともあった。
デモのリズムパターンを再現するのと、今の自分を表現したパターンと2通り考えて行った。やはり後者のパターンが採用になった🥁
そしてレコーディングになる訳だが、レコーディングスタジオに入ってからは昔と違い、進行するスピードはメッチャ速かったwあっという間にドラムは録音終了。
歌録りもスムーズに進んだ。
MIXも素敵に仕上がった♫

いよいよMVの撮影だ。
もう季節は変わり寒くなっていた。「撮影するよっ!」てMIYO-KENから連絡が来た。どうなるかは別としていよいよ動き出したんだと実感する。
プランニングや監督どうする?ってのは成るように成るって思っていた。
MV撮影はスムーズに進んでいった。ただ言えるのは、「楽しみでしかない!」ってことだった。
1人1人ソロショットしていく、寒かったこともあって自分のシーン以外は各々暖を取っていた。
自分の番になるまでジッと待った。
なので自分以外のシーンは出来るまでわからないのである。
そもそも気心知れたメンバーなのでどうなるかは察しが付く。
…いやいやこれ以上話したら全てが薄っぺらいものになってしまうのでこれにてドロンです 笑


DJ PEAH

MV撮影では、深夜終電後の渋谷でした。寒い中で野外撮影は、 tearsのMV以来のことです。その当時は撮影時間も夜から朝までかかり大がかりなものでした。今回もそのような意気込みでいたのですが、コロナの影響もあり、新曲の撮影は個人別々で一発収録となりとても撮影は速かったです。

この新曲は正式にベスト盤発売に至るきっかけになったのではないだろうか? 本来再結成してLIVEできたらいいよね。くらいでした。慣れ親しんだ曲を共有して新たにリアレンジしていきました(これはベスト盤には入っていません)便利な世の中になっ たものです。いわゆるリモートですね。そうしてメンバー同士モチベーションを高め制作意欲に変えていったのです。

今回ベスト盤はリマスターということで発表しています。レコード会社にご協力していただいて、このような流れになったわけです。これに新曲 BIRD CAGE が加わっています。

プロモーション写真撮影時に初めてデモ聴いたのですが、初聴き時に思ったのはデビュー曲(call me)に似ていると直感で聴き流したのを覚えています。 Miyoken、 Koichiroで曲を制作、デモの段階でしたが自身がやるべきことを、そこでイメージできたことは、とても縁ある曲だなと改めて感じています。

原曲にアレンジを肉付けしていくやり方ではなく、ほぼ同時進行で完成させた曲ともいえる。
だから余計なものが入っていない。どこかのパンのCM みたいだが、今までできなかったこと(やりたかったこと)はこのことだったんだろう。裏を返せばこの曲だから成立できた。

TALK ABOUT…BIRD CAGE

KOICHIRO

2020年少し暑くなってきた頃、ミヨケンから曲が送られてきた。前に作ったと言うその曲を聞いた直後に「これやろう!」って即答した。そこからデータのやりとりが始まった。今までなら当然、歌詞は最後だったけど、メロディーを作っている段階から歌詞の断片が出来てきた。昔の自分では考えられないけど、2時間位でアウトラインは書き上げた。今を反映する歌詞は、考える予知がないくらい、今がテーマになっている。そして出来上がった「BIRD CAGE」はM-AGEらしい曲になりました。
ここから第三章の始まりです。世の中の流れ的に今後の予定が不透明な部分はありますが、またM-AGE として音を紡いでいきます。この時代にREUNIONできたのは奇跡ではなく必然だったのかも知れません、そして困難な状況だからこそ意味があるのだと。


MIYO-KEN

これ読んでくれてる方々は、誰も思わなかったでしょう?w
まさかの復活&新曲リリース!!
しかも超豪華ボックスセットまで。

ビクターさん頑張ってくれました。
担当の森谷さん、どうもありがとう!心からお礼申し上げます!!

みんなのコメントはほんと励みになるし、とても嬉しいです。
心の底からリユニオンして良かったと思ってます。

まだ始まったばかりです。
これから素晴らしい時間を一緒に作っていこう!!

「♬君とならば~何処へだって~」


OKAZAKI

リユニオンである。素直に「嬉しい」って思った。
痛快に叩かせてもらっています。ニコニコです。🥁
なんか多く語るほど薄くなっちゃってもったいないから、みなさんが感じた事。何度でも良いのでコメント聞かせてください。
そしてこれからも宜しくお願い致します!!

あーまだまだ語りつくせないなぁ。


DJ PEAH

これは今までやったことのない作り方、作曲者Miyokenがトラックを作り構成し、メロディはVo.Koichiroに丸投げみたいな感じだが、どうしてそれこそがうまくいった答えである。アレンジもその流れだ。

TALK ABOUT…BLIND VENUS (CASPER POUND MIX)

KOICHIRO

当時、台頭してきたアンビエント勢に名を連ねていたCaspar Pound 。解散後の発売なので僕がこれを聞いたのは少し後だった。その頃の僕はシンセを買い漁っていた時期だ!JUNO-106,PROPHET-5,SY-85,E-MAX2・・・etc。この話はまた別の機会にw


MIYO-KEN

解散の話はどこでしたんだっけ?
まだみんな学大周辺に住んでたから、駅前のドトールとか?
確か94年の1月中頃だったかな。

そんなに重苦しい雰囲気にはならなかったと思う。
実際に自分たちでも良いアルバム作れたと思ったしね!

精神的に無茶苦茶落ち込んだって事もなかったと思う。
ポッカリ心に穴が空いた事は確かだったけど。

それよりも、やば、来月からどうしよう??的な問題の方がリアルだったw

このリミックス2曲は解散後にリリースされた。

アンダーグラウンドだったテクノが世の中に浸透しつつ、ニルバーナを筆頭にグランジが大ブームを引き起こしていた。


OKAZAKI

それまでこの方の存在は余り知らなかった。ただこの頃のリミックスのあり方が変わってきていた。80’s後半から90’s初期はフロアに向けてリミックスってのが主流だった(もちろんまだまだ沢山あったが)かも知れないがこの頃はミニマムな世界観なものも多くなってきた感じがあった。上がって来たものを聴いたら美しかった、いや綺麗だった。そしてM-AGEも幕を閉じていった。


DJ PEAH

まさに、Wake Up! ポカンと口を開けて何度聴いたことでしょう。朝日が昇るイメージだったり、夕日だったりさ。色々な場面で楽しんでいただけたら幸いです。

TALK ABOUT…STARSHELL (MIKE EDWARDS MIX)

KOICHIRO

文句なしにカッコいい!って言うとそれまでなんだけど、当時のテクノ勢と比べるとかなり独自性が強いミックスになっていると思う。そういえばロンドンのクラブでお会いした事があった!握手はしたが、それ以上は特に会話もしなかったシャイな方だ(人の事は言えない)。そんな中やはり、かっちゃんは馴染んでいたw


MIYO-KEN

帰国してからは、ジャケットの打ち合わせ、MV撮影、ファンクラブイベント等で慌ただしく過ぎて行った。『interface』の評判もすこぶるよくホッと肩をなで下ろした。
実際俺らの中でも手応えはあったし、特に「Blind Venus」においてはM-AGE史上最高傑作と自賛していた。kajiwaraの脱退を乗り越えここまで来たなと。

そんな中12月に予定されているライブのリハが始まった。
今だったらベースのサポート入れるとか、もう一人ギター入れるとかいろいろと思い浮かぶけど、当時は4人でやる事への強い拘りがあったように思う。
それについて話をした事はないけど、みんなそうだったんじゃないかな。
なんか意地というかw

オンエアーイーストでのライブ、内容良かったんじゃないかな。
この時点ではこれが最後になるとは思わなかったけどさw


OKAZAKI

カッコイイ!!彼のセンスはホント好き♫
ロンドンのクラブで彼とキーボードのイアンに会った。僕たちを知っていた。嬉しかった。このころはATARIのPCでCUBASEってのが主流だったのかな?実際オレもATARIでCUBASEだった、聞いたらマイクもATARIでCUBASEだという。ソレも嬉しかった。彼らはRolandのJUNO-106が大好きだとも言っていた。2人に「今度リミックスお願いしたら演ってくれるかな?」って聞いた。ふたつ返事で「OK!」と言ってくれたが正直「ホントかなぁ」って半信半疑だった。だってロンドンに1ヶ月くらいしか居ない田舎者のオレの喋る英語なんて伝わってるとは到底思えなかった。とある日、マクドナルドでメンバーが「チキンナゲット」(だったと思うけど)を注文をしたら「Ha-!?!?」って言われるくらいだもんねww
その後帰国して解散になった中でRemixの企画。この曲が上がって来てマジ嬉しかった。本当に感謝しています。ありがとうマイク&イアン。

原曲はいつものことだが気になる音源を片っ端からサンプリングして行きある程度集まった頃にスピード(テンポ)に合わせてチューニングし、時間軸に揃えて再生する。
今回はコンセプトがあった「リサイクル」♻ 。シンセは使ってなかったという記憶。再利用(リサイクル♻︎)するにあたって色々考えていった。みんなが気に入った音源を無造作にサンプリングしていったのかなぁ…。間奏のスクラッチは録音するときにリアルタイムでオレがフィルターをクリクリしながら録った。楽しかった。


DJ PEAH

いただいたMIXの中でMike Edward Mixが僕の中では一番理想に近くて、Mikeらしいものでした。自然と体が動くようなグルーヴがなにより良かった。その頃テクノよりもミクスチャーなもの、ダンサンブルを好んでいた。今聴いても新しくて、いつになっても体が反応するサウンドです。

TALK ABOUT…PERSONAL ASCENSION

KOICHIRO

これもお気に入りの曲。サイケな要素とメロが秀逸。歌入れの時に声が聞こえたのはこの曲だったと思う。イントロが終わって、歌い始める所で、高い女性の声が聴こえて「なに?」って?でもそれは不思議と怖い感じはしなくて、むしろ歓迎されてる感じがした。
タイトルは「昇天」。というと死を連想するワードだけど「更なる高みを目指そう」という非常に前向きな歌詞です。

ロンドンも2回目となると、みんな慣れたもので空き時間は、好きな所に出かけていたんじゃないかな?僕も1人テムズ川のほとりで黄昏ていた記憶があるw

そして後半はクラブにも何度か遊びに行った。前年に行った洞窟の入り口のようなEBM推しのクラブは違う店になったように廃れていたり、古い劇場を改築したクラブではハードフロアのようなアシッド系の曲が流れていて、客はみんな一心不乱に踊っていたのが印象的だった。その中で見つけたかっちゃんは妙に馴染んでいたw

MIDIsequence ATARI(機種は覚えてない)
Cubaseの組合せ。日本で使ってる人見たことなかったけど、ロンドンでは多かったみたい。
sampler AKAI S1100
synthesize Roland JD-800 JUNO-6か60
ベース音はサンプルで鳴らすのが多かったけど、音が細いのでJUNOやJDなんかをレイヤーして鳴らしている。


MIYO-KEN

この曲のレコーディング中に起こった事はブックレット通り。

日本のスタジオでもこのての話はよく耳にしていたのだが、例えばこんな話とか。
『トイレのドア閉めて座ったら、ドアから浮き出てきた目にガン見された』とか
『ブースでレコーディング中、コントロールルームが騒がしいので「何??」って聞いたら「ブースの前にお坊さんが立ってる、、」って返事で慌ててブースから出ようとしたらロックされててドアが開かない!!』とか。。

まさか自分が体験するとは思ってもみなかった。。
不思議な事に怖さはあんまり感じなかった。なになに???ってのはあったけど。

ミックスはこのスタジオで全曲マイク・スパイク・ドレイクによるもの。
マスタリングはTOWN HOUSEにて。
『VibES』は日本でマスタリングしたのだが、いろいろと反省点もあったので
今回は全てロンドンで。

ライブも沢山見た。これもまた日本ではありえない対バン。。しかも安い!!
ジェームスがトップでライブスタート、次いでスワーブドライバー、ヴァーブ、
トリでワンダースタッフ。。(カタカナでごめん)
圧倒的にヴァーブが良かった!!もうアタマ3つ抜けてた!!

PWEIも素晴らしかった!!

前回同様、美味しいものも沢山食べた。
俺の中で断トツ1位はなんといってもインド料理だ。
高級店から食べ放題のお店まで。。(多分制作費の中に食事代も含まれていたと思う汗)

確か最初のロンドン時だったと思う。
デビッドボウイも来店したことがあるという、高級インド料理店での話。
インドビールで喉を潤しながら前菜をつまみ、そろそろワインに行こうかという流れになり赤ワインを頼んだ。さすがは高級店、テイスティングもあったり。
噂には聞いていたが、タンドール料理からナンに至るまで日本のそれとは見た目(ここでは大きさ)も味も全く別次元だった。
個人的には「こんな美味いものが世の中にあるのか??!!」と思ったくらい。
いやいや、けっして大袈裟な話じゃなくてさ。

帰国してからは、あそこの店が美味しいよなんて噂を聞くと、迷わず食べに行ったものだ。
最近は年齢と共に好みも食べる量も随分と変わったので、めっきり食べ歩く事は減ったのだが。

話を92年に戻しますw
カレーも、肉、魚、野菜と何種類かオーダーしたと思う。
合言葉はベリーホット!!
調子に乗った我々は「一番辛いのください!!」と。。
ボーイさんは「日本の方々には無理だと思いますよ」と。。
実際無理だったと思う、、なぜなら2番目に辛いカレーで悶絶していたのだからw

今、冷静に考えるとメチャ喉に悪いよね、、
「koichiro、ゴメン!!」
今更だけど謝ります、メンバー、スタッフ代表して。。

無理やりまとめるが、今回も様々な思い出を胸に刻み、そして帰国の時を迎えた。


OKAZAKI

限定版のブックレットでMIYO-KENが触れている話はホントですw

完全生ドラム。「ドラム叩けますよ!」アピール曲(笑)特にエンディングは全開に「チョーシこんでる」(茨城弁)
これもミヨ節。良い♫シンプルなシンセベースにギターと生ドラムのアンサンブルがたまらない。女性コーラスはスタジオに居たアシスタントの方だったと思う。
ある日スタジオの廊下で彼女とすれ違った際鼻歌を歌っていた。素敵だった。すぐさまディレクターさんに伝えたところ即採用!この様な出来事がロンドンでは良くあった。
アルバム『vibES』で「月の微笑み」と言う曲も「KISS♫」というヴォイスが入っているがソレもアシスタントエンジニアだったベン・ヒラー(現在ではデペッシュモードのプロデュースエンジニア)だ。


DJ PEAH

このリズムはスクラッチするときもフィットするんだよね。今後定着しそうなリズムです。シンセだけ日本で作ってLONDONで生楽器録音予定。そこで全体像がわかるのであるが、サードアルバムでは、現地の空港X線でJD800の音源保存カード飛ぶというアクシデントに見舞われた。よってすべて向こうで制作することになる。
サードアルバムLONDONの思い出は、MAD CAPSULE MARKETSさんらと同じスタジオで意気投合、ビリヤードしたりクラブにも行った。Vo.KYONOさんからおすすめのクラブない?と聞かれて、当時ハードコアテクノで有名だったクラブノリッジへ一緒に行きました。狂うように盛り上がり汗をかいたのを思い出します。この時はうちのメンバー私だけでした。

TALK ABOUT…OCEAN RAIN

KOICHIRO

ロンドンに着いたその日は、空港からそのままmaster Rock studioに!スタジオに入ると広いロビーで革ジャンを着た素敵なチョイ悪オヤジがビリヤードに興じていた。よく見るとブライアン・フェリーではないか!数秒フリーズし握手して貰ったのかすら覚えてないくらい緊張しましたw
握手して貰ったよね?それとも思い出補正?


MIYO-KEN

2度目のロンドンということもあり、地下鉄やバスの乗り方、買い物の仕方など随分と慣れたもので、メンバー其々がレコードショップ、パブと自由気ままに行動していた。

レコーディングの方は、昼過ぎに始まり、夜の9時、10時くらい、作業のきりの良いところで終わらせていた。

このMASTER ROCK STUDIOは英国のトップアーティストにも使用されており、同時期にレコーディングしてたのかどうか定かではないが、ロビーでブライアン・フェリーがビリヤード(スタジオはビリヤード台が多い、何故?)してたり、シンプリーレッドのミック・ハックネルがやってきたり、極東の若者にとって、すぐに状況が飲み込める程余裕がある精神状態では無かった事は言うまでもないだろう。

さらにこんな事もあった。

レコーディングも終わり、ミックスの作業に入った時の事だ。
例のごとくミックスチェックまで時間がたっぷりあるので、スタジオのロビーで雑談していたら日本のMTVなどで良く見かける背の高いナイスガイ(死語)が近づいてきた。
ん?、なんとスウェードのベーシスト、マット・オズマンではないか!!
「チューナーを貸してくれないか?」と申し訳なさそうに話しかけてきた。
勿論二つ返事でオッケーしたのだが(正確には三つ)、話を聞いてみると音楽家なら絶望的な気持ちになる内容だった。

「機材車ごと楽器が盗まれた、、何もかも。。」

その後楽器が戻ったかどうかはわからないが、日本でもこういった事件は後を絶たない。
「車は良いから楽器だけは返してくれ!」という言葉は、心の底から湧き上がる叫びです!


OKAZAKI

ミヨ節。大好きだ。「切ない」このキーワードの事を彼に任せたらこの世イチだと思う。
バスドラムはLINNドラムのサンプリング。スネアは数種類のミックス。シンセベースは…プロフェット5かJD-800。
この曲はシャッフルリズム(16分音符を「シャカシャカ」ではなくて「シャッカ
シャッカ」とリズムをとる)このリズムパターンはタイミングが合えばずっと打ち込みで演りたかった。
リズムの中で「チッキチッキ」という音色が出てくるが、これがリズムの核になればと思い打ち込んだ。確か音色はシェイカーのサンプリング。この手のパターンは匙加減が難しい。
ずっとなっているとやかましい。blind~で学んだ引き算の美学である。
逆に今現在、このテンポ感とシャッフルをDAWで再現すると精度が良すぎて、あのようなグルーヴを作るのは難しいのも時代を感じるものだ。


DJ PEAH

シャッフルが効いてます。M-age初の跳ねてるリズム、セッションしながらいけるんじゃないかってことで打ち込んだ記憶。リズム、シンセ、ベースまで作り、後はLONDON作成、ムーディな曲に仕上がっています。大好きな曲です。

TALK ABOUT…BLINK BLINK BLINK

KOICHIRO

INTERFACEは最初にして最後のコンセプトアルバム。「Intle escape point」曲のタイトルの太字を繋げるとこんな意味が隠されていて(隠してはいないかw)全員が同じ方向を向いて作った。
歌詞についても「Blind Venus」からの流れで「解放」というテーマをもとに書き下ろした。ユウジの脱退があり「Mother」「Blind Venus」2枚のシングルの経て到達した答えだったように思う。

さて2度目となるロンドンレコーディング、Peahが作ったこの曲は一番最後に歌ったかな!?コンセプトアルバムなので、歌詞にも統一感が必要と考え、全体的に「空」をイメージさせる歌詞になっている。当時の僕には歌詞に統一感を持たせるのは大変な作業だった。自分で課した事の重圧に押しつぶされそうになりながら書いていたが、そこはやはりバンド!みんなに救われながら書き終える事ができた。この歌詞に出てくる「燃え尽きていく星のように」文字通り歌入れ終了時には燃え尽きていた・・・orz


MIYO-KEN

93年夏の終わりに渡英。

前年に続き2度目なので、準備等の混乱は無かったように思う。
今回は収録曲も出揃っていて、満を侍してのフライト。
飛行機はJALだったので「Beef or Chicken ?」的なものはなく、「お肉、お魚何方にしますう?」的な聞き慣れたものだった。前回同様、機内ではタダという事につけこんで、ワイン、ウイスキー片っ端から浴びる様に飲んでいたと思うw
気圧の影響で酔いが回るのもめちゃ早い、、そうなったら寝れば良いだけなのだが。
タバコも吸えたし、おおらかな時代だっと改めて思ったり。

ヒースロー空港に着いて、コーディネーターさんのお出迎えを受けまっすぐスタジオに直行したのかな、あれフラットだったっけ?んー、思い出せない、、
その晩は親睦の意味も兼ねて、録りをお願いするリチャード・ノリス氏とコーディネーターさんと食事に出かけた。あれ?どうだったかな?ほんとに行った?俺、勝手に話作ってるかもw

宿泊はスタジオから徒歩圏内のフラットで共同生活。

場所はキルバーン、当時IRAによるテロ事件が多発してた地域。

翌日からはジェットラグと戦いながらも順調にレコーディングスタート。

無事に数曲分のシーケンスデータをテープに流し込んで初日は無事終了。


OKAZAKI

ペーちゃんの曲。やはり彼の曲はハッピーで良い。ベース音は忘れた。16分音符のシンセはJD-800。バスドラムはTR-909のサンプリングと違う音色のサンプリングをミックスしている。スネアはTR-909の音からさらに進化したくて試行錯誤していた頃なので色々な音色をミックスし過ぎてひとつひとつの音色の記憶がない。
ロンドンに行って思ったことだが電圧の違いで音が変わることを実感したことがある。それはシンセでの事だ、日本でプログラムしていると高音部などが強くて歪んでしまったりしていた音色が、ロンドンへ持って行くと全く歪まないのである。メモリーカードは当然日本でセーブしてソレを持って行き、ロンドンでレンタルしたJD-800に入れリコール。するとどうだろう全く歪みがないのである。ギターアンプでもその様な事をMIYO-KENは言っていた。


DJ PEAH

曲を作ったときはシンセピアノの音色だけでメロディのせて作った。曲が選ばれてからは、LIVEスタジオでセッションし、それぞれのパートでアレンジが始まり、土台ができてLONDONへ持っていった。サードアルバムは約二カ月のレコーディングで完成に至る。日本のLIVEスタジオでよく食べた、お肉屋さんの弁当(カレー)の味が忘れられない。